三月は、すこし頭が変になりますよね。

三月は小説を書くことに決めていたので、
小説を書くことに集中していきたいと思います。


書く前に、小説とは何かをいったん考え直すために、
文芸論を青空文庫から引っ張ってきて、
いくつか読みました。


『文芸の哲学的基礎』夏目漱石
『大衆文芸作法』 直木三十五
『文芸と国語』 岸田國士
『純粋小説論』横光利一


小説家の使命とか、大衆小説と芸術小説の違いについてや、
文学の役割とか、文芸復興について、どれも大変興味深かったです。
いくつか引用します。

もし我々が小説家から、
人間と云うものは、こんなものである
と云う新事実を教えられたならば、
我々は我々の分化作用の径路において、
この小説家のために一歩の発展を促されて、
開化の進路にあたる一叢の荊棘を
切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。
(『文芸の哲学的基礎』より)

平易な文章というのは、
自分の文章の特色を没却することを意味するのでは断じてない、
ということである。(中略)
よき文章家には、必ず隠そうとして隠し切れないであろう特色が、
自らその文章に浮び出るものである。要は明快であることだ。
(『大衆文芸作法』より)

文学こそ人生の真の美しい意志と感激とを、
表裏錯綜した現実の中から
仮名の人物に托して拾ひあげるものであります。
(『文芸と国語』より)

もし文芸復興というべきことがあるものなら、
純文学にして通俗小説、
このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、
と今も私は思っている。
(『純粋小説論』より)

へもTVの第十一回です。




今読んでいる本。

目がかゆかったりするので、
一進一退を繰り返しつつ、ページをめくっています、

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

選択の科学

選択の科学

権力を取らずに世界を変える

権力を取らずに世界を変える

並行して読んでいるのですが、特にいまおもしろいのは、
『スーパーセンス』という本です。
事件のあった家に人が住みたがらないことや、
有名人が使ったギターが高値で取り引きされるとか、
そういう心理について詳しく書いてあります。


スーパーセンスというのは、
念みたいな目に見えないものについて、
「やだなあ」とか「いいなあ」と知覚することなのですが、
この本のよいところは、
目に見えない念や霊やエネルギーなどが本当にあるかどうかは、
問題でなくて、どうして人は念があると思って変な行動をするのか、
ということに、科学的に焦点をあてているところです。



それはそうとして、

文芸論と、『スーパーセンス』とか『選択の科学』とかを
混ぜて考えると、作者はどうしてこの単語を選択したのかとか、
この単語と単語が連なることによって生まれるエネルギーは
一体なんなんだろうということを考えたりして、
読書が一向に進まなくなってきたりします。


で、思ったのは、話は変わりますが、つまり、
念とか気とか、あるかどうかは別として、
とにかくそれを作って人々のスーパーセンスに、
訴えかければよいのだなと思いました。
「空気を読む」とか言いますけど、
「空気を作る」ことにシフトしていった方がいいと、
僕のスーパーセンスが言うのです。


スーパーセンスは人間に生まれつき備わっているらしいので、
噺家が演芸場の空気を作ったり、
小説家が文章で世界の空気を作ったりすることで、
空気に触れた人が、目に見えないものを感じて、
笑ったり感動したりしているのでしょう。
つまり作り手はスーパーセンスに敏感で、
どこをどう動かすと、どれだけの効果があるということを
はっきり観察して理解している必要がある。

かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、
物を分って自然と人間と超感覚的な神とし、
我を分って知、情、意の三とします。
(中略)
そこでこのうちで知を働かす人は、
物の関係を明める人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云います。
情を働かす人は、物の関係を味わう人で
俗にこれを文学者もしくは芸術家と称えます。
最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で
俗にこれを軍人とか、政治家とか、
豆腐屋とか、大工とか号しております。

と夏目漱石の『文芸の哲学的基礎』にありますが、
つまりそういうことなのか!と思いました。
どういうことだろう。


なんとなく。