長い一日。

暑さと湿気のすごい川崎を目的もなくうろうろしていたら、
生麦のキリン横浜ビアビレッジで、ビール作り体験をしていた
umiさん、キムくん、影さん、よしとしさんが、
ビール作り体験を終え、京急川崎駅近くの
「直送ビール園 北海道 Beer & BBQ」で打上げをすると、
つぶやいていたのを発見して、そこへ向かうことにしたのは、
集合時間十八時の二時間前で、ぼくはその時、
イタリアのヒルタウンをモチーフに作られた
エンタテイメントの街「ラ・チッタデッラ」の周辺にいた。


午前中は友人と会って、ミスタードーナツで、
二度うまカレーパン(スパイシー赤&キーマ)と、
エビグラタンパイを食べて、アイスコーヒーを飲んでいた。
ぼくは日本最大級のファッション通販サイトZOZOTOWNで、
これより約一月前に、Levi'sの「STA PREST」の
クロップドパンツを買っていて、これは、
裾丈を普通のものより短くカットしてあって、
七分丈で脛が見えるほど短いのを想定していたのだけど、
ぼくが穿くと脚の短さから裾がくるぶしにまで到達して、
こうなるともはやファッションではなく、
ただのツンツルテンなズボンを穿いている人
になってしまっていたのだった。
(そして、いまショックを受けた。
このSTA PRESTを検索したところ、
購入時より千五百円の値引きがされていた。)


僕はこのSTA PRESTの、
色はジェットブラックと呼ばれるものを穿いていて、
その姿を見た友人は、
「そのパンツには、Tシャツが似合いそう」
と言ったのだった。ぼくはTシャツではなく、
ユニクロの白い半袖のYシャツ
(ドライイージーケアドビーシャツ)を着ていた。
ファッションに詳しいその人がそう言うなら、
たぶんそうなんだろうと思って、
ラ・チッタデッラにいたのは、
Tシャツを買おうとしていたからだったのだけれども、
横浜でも買えたのに、なぜわざわざ川崎の会社近くの
ラ・チッタデッラにいたのかというと、umiさんたちが、
生麦にいて打上げをするなら、おそらく川崎辺りだろう
と踏んでいたからで、「川崎 Tシャツ」で検索をしたら、
何店かTシャツの店が引っ掛かったのだけど、その中でも、
「No More Tears」というTシャツの店を選んだのは、
柄がおもしろかったからだった。おもしろい柄というのは例えば、
シャツの真ん中に「寝不足」という文字が縦書きされていたり、
他にも「人見知りします。」「宇宙を理解した」などがあり、
それを着て、umiさんらの待ち合わせ場所に現れたら、
若干の笑いを得られるのではないか、そして、
その笑いによって緊張感が緩み、
いつもよりもあたたかく、自然に、
輪に入り込めるのではないかと思ったからだった。
そこまで気を巡らせたのは、ぼく以外のメンバーは、
すでにビール作り体験という共同作業を終えており、
一体感と共通の話題を共有しているであろうから、
そこに唐突にビール作りをしていない者が入っていくという状況、
それを想像すると、ぼくとしては勇気を要することだったからだ。
しかし、冷房の効いた店内にいると、汗が引き、
心が冷静になり、おもしろTシャツを着て皆の前に現れたら、
それはいかにもウケを狙っていて、先に述べたような、
共同体の中に自然に溶け込もうという算段が透けて見えて、
逆に気まずくなるのではないかと思い、
「No More Tears」の店内を一周しただけで、店を出た。


チッタデッラのビバーチェという建物からも出て、
実はこの建物に入る前に、ちらっと見ていた露店があって、
その露店にはユーズドつまり中古のTシャツが何枚か売られていて、
一枚千円だったのを記憶していて、改めてそのシャツの前に行った。
目についたのは、薄い黄色で、首周りがだらりと緩くて、
いかにも着心地のよさそうなもので、
タグには「BURDEN」と書いてあった。
物の良し悪しや、デザイン性に優れているとかは、
ほとんど分からないのだが、そういえば午前の友人が、
似たような薄黄色のTシャツを午前中に着ていたのを思い出した。
その人のシャツにはフラダンスをする
女性のイラストが描かれていて、ぼくは笑ってしまったのだけど、
そのおかしさを指摘した時、ぼくらはミスタードーナツにいて、
ぼくの前歯にカレーパンが挟まっていたことを逆に指摘され、
その場は双方のツッコミが打ち消し合って、
和解的な収まりを見せたのだった。
そして、そんなフラダンスのTシャツでも、
いい品らしかったので、きっとこの露店にある
薄黄色の首周りの広いTシャツもいい品に違いないと思い、
手にとって、暇そうにしている若い男の店主に渡した。
店主はセンスがあるように見えるファッションをした、
俗にいうイケメンで、そのイケメンは、
ぼくからTシャツを受け取ると、
「いやあ、掘り出し物見つけましたね」
と、ぼくのことを褒めたが、あまり店側から、
「掘り出し物」と言うことはないんじゃないかと思った。
というのも、掘り出すのは客の仕事で、意味は、
「思いがけず安い値段で手に入れた物」のことだから、
ぼくが、まあ千円くらいだろうと思いがけていたら、
掘り出し物にはならないのではないだろうかと思ったが、
暑いからよくわからなくなり、褒められうれしくなって、
「へへっ、へへへ」と不気味な笑いをして、
千円札を一枚渡したのだった。


買ったらすぐに着たくなる性格なのと、
友人が言った
「そのパンツには、Tシャツが似合いそう」
という言葉を確かめるために、再びビバーチェに入り、
トイレの個室に入って内側から鍵を掛けた。
着ていたシャツと、内に着ていたタンクトップを脱ぐと、
すっかり汗を吸って重くなっていた。
それらをリュックサックに無造作に放り込んで、
さっそく買った淡黄色のシャツを出して着た。
すごく快適だった。そして、パンツにも、
たしかに色やスタイルが合っているような気がした。
この格好で集合場所に行けば、
「しーなさん、いつもとちょっと違いますね、夏仕様ですね」とか
「あれ、なんか、おしゃれですね」といったコメントと、
さらに褒められれば、スマートフォンでぼくのファッションが撮影され、
Twitter上に展開されるのではと期待した。
しかし、まずいことに気づいたのは、
ぼくの胸元に、まばらに短い毛が生えていることで、
これはいけないことではないかと思ったのだった。
首周りが広いせいで、胸の毛が見え隠れしてしまうと、
対面した相手が、そのことにばかり気が行って、
話が上の空になるのではないかということと、
清潔感に欠ける印象を与えてしまうことを恐れたのだった。
さらに、胸毛の処理ができていないくせに、
いいシャツを着ても、全然ファッショナブルではない、
ということになる。そうに決まっていると信じていた。
また、それを裏付けるエピソードとして、
社会人三年目くらいの頃、会社の同期のイガラシイッセイ氏と、
目黒の権之助坂沿いにあるインド・ネパール料理店
カトマンズ・ガングリ」を出た時だったか、
または、別の店だったかは定かではないが、
その日も、今日くらい日差しの強い夏日だったのだが、
イッセイ氏が、ぼくの胸元に何本か毛があるのは、
わざとそうしているのかと尋ねたのだった。
もちろんわざとではなく、それ以降、
自分の胸元に毛があることを意識するようになって、
半年に一度くらい、思い出したように、
二十本ほどピンセットで抜いたりしていたのだった。
ぼくはビバーチェのトイレの中で急に恥ずかしくなり、
このまま外に出ることはできないと思い、
白いYシャツを、淡黄色のシャツの上に着て、
きちんと前のボタンを閉めて、トイレを出た。
トイレを出ようとして、ドアを開けようとしたら、
なぜか三センチほどすでに開いていた。
よくわからないが、隣のドアがドン、ドンと開閉して、
その振動で掛けていた鍵が外れて、
さらに扉が開いていたようだった。


ビバーチェを出て、すぐのところにあるファミリーマートに入り、
使い捨てのカミソリ「ベスティーEX首振りタイプ」二本入りと、
ついでにGATBYのフェイシャルペーパーを買って店を出て、
再びビバーチェのトイレに入ろうとしたが、
何回も出たり入ったりをしていると警備員に怪しまれると思い、
エスカレーターで三階に上り、さっきと別のトイレに入って、
個室に入り鍵を掛けて、勝手にドアが開かないことを確かめた。
バリバリとカミソリの袋を開けて、プラスティックのカバーを外して、
首から胸にかけて、まばらに生えている毛を剃ったのだが、
なかなかうまく剃れないのは、
人間の首は、可動域の限界まで下を向いても、
鎖骨の辺りはよく見えないようになっているからで、
眼球をできるだけ下に向けても、
カミソリの刃の当たる角度がよくわからないため、
まさに手探りで剃っていくしかないことと、
下の向き過ぎで、気分が悪くなってきたことも影響していた。
しかし数分でコツが分かり、二十本ほどの毛は、
目視できないため、どうなっているか明らかではないが、
目立たない程度に剃れたのではないかと見切りをつけて、
個室を出て、洗面台の前に立って確認したら、
首が血だらけになっていた。手探りで剃ったのと、
百五円の使い捨てカミソリということもあり、
鎖骨の辺りから、満遍なく血が出ていた。
血を指で拭ってもすぐに血がにじむほどだった。
出血に気を取られて忘れていたが、肝心の毛は大方剃れていた。
しかし、胸元に毛がある方が、胸元に血があるよりは、
ずっとよいことはわかっている。
トイレを出たところに、ベンチがあったので、
そこで血が止まるまでハンカチで止血していたら、
umiさんがTwitterで集合場所と時間をつぶやいた
集合時間の三十分前になってしまっていたので、
首周りにかさぶたができているのではと心配しながら、
ビバーチェを出て集合場所になっている方に向かうことにしたが、
今いるところから出ると、さっきの露店の正面に出て、
そこで店主にあったら、
「あの人、買ったTシャツをもう着てる」
と思われると恥ずかしいと感じて、露店に近寄らないように、
ビバーチェの裏手に出る、細い通路を抜けて、
ラ・チッタデッラを大回りして、新川通り沿いの
さいか屋脇にある地下へのエスカレーターを使って、
川崎駅地下街アゼリアに入った。


アゼリア内のスカイウォークという通りにある
有隣堂で今月の文藝春秋を立ち読みして、
今月は芥川賞受賞作が載っているので買おうか迷ったが、
買わなかったのは、他にまだ読んでない本がたくさんあることと、
Tシャツを買ったり、胸毛を剃ったりで疲れて、
活字を読みたい気分になっていなかったたからだった。
そうこうしているうちに、待ち合わせの二十分前になり、
スカイウォークからフォレストウォークに移り、
JR川崎駅方面の通路の脇にトイレを見つけたので、
首からの血が止まったか、胸元に毛が散乱していないか、
最終確認をして、フェイシャルペーパーで拭いてから向かおうと、
トイレの個室に入って鍵を掛けた。
今日だけですごい数トイレに入ってるなと思いながら、
リュックからフェイシャルペーパーを取り出して首を拭いて、
概ね血と毛についての心配は解消されたのではと思ったが、
普段Tシャツをほとんど着ないので、
この格好で大丈夫なのかと不安になってきて、
人前に、特に、ぼくのことを知っている人たちの前に出るのが、
急に恥ずかしくなってきて、そわそわしだしたのだが、
いつまでもトイレにこもっているわけにもいかないと気を取り直して、
集合場所には、様子を見ながら少し遅れて現れよう、
そうやって心の準備を少しずつして皆の前に現れれば、
多少は気が楽になるだろうとトイレから出て洗面台に向かったところで、
見慣れた顔の人とすれ違ったなと振り返ったら、
東雲さんだった。おどろいて「東雲さん」と声を掛けて、
すこし後悔したのは、ぼくにまだ心の準備ができていなかったのと、
首を拭いたことで、かさぶたが取れて、
再び血が出てるのではないかと思ったのと、
いつも着ていない首周りの広いTシャツを着ていて、
ツンツルテンのパンツを穿いていることと、
トイレの個室からぼくが登場したことと、
加えて、Tシャツがかなり薄いので、
乳首が透けていないかと思ったからだった。
まさか、アゼリアのトイレで遭遇するとは思わなかったのは、
東雲さんも同様だったようで、ドギマギしてしまったが、
さすが東雲さんは安定感のある人なので、
いつもと違うであろうぼくについても、
普通に接してくれた。東雲さんはトイレを出たすぐのところの、
テレワールドというスマートフォン専門店で、
バッテリーを充電しているところだった。
充電が終わるのを立ち話をして十分ほど待ってから、
一緒に川崎商工会議所方面の階段を登ってアゼリアを出て、
京急川崎駅横の集合場所に行った。


直送ビール園 北海道 Beer & BBQで、東雲さん、
umiさん、キムくん、影さん、よしとしさん、
そこにうえのさんも加わって、テーブルに付いたが、
誰もぼくのファッションについては触れなかった。
集合までにあった、ぼくの苦闘は、
ぼくの自意識との戦いだったのだと思いながら、
ビールとサムギョプサルという豚のばら肉を焼いたものを食べて、
とても満足して帰ったのだった。