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長い休み

生活

今週は日曜から木曜まで毎日ジムで運動をした。
ジムに行ってすることは決まっていて、
レッグプレスで太腿、バタフライで大胸筋、
アブドミナルで腹筋、バックエクステンションで背筋。
気が向いたらダンベルを両手に持って肩の筋肉。
それからランニングマシンで、時速八キロで二十分間走る。
無理をすると、すぐにどこか痛くなるので、無理しない。
シャワーで汗を流してサウナに入って、全身の力を抜く。
頭の先から顔の前を通って鼻、首、胸、腹と順に緊張を解く。
体の側面についても。耳、首、肩、腕、手。脇、脚。
続けて後頭部から、肩甲骨の間、背骨を緩める。
最後に頭のてっぺんから、脳、気管、食道、肺、胃、腸と、
内蔵を全部緩める。よく意識しないと緊張が残ってしまう。
気の通り道を作って、ゆっくり呼吸する。
十分くらいで出る。露天風呂があるので、そこで日光浴。
長椅子に横になって、何も考えずに空や雲を眺める。


空を眺めていたある日、チラチラと視界に入る影があった。
飛蚊症ではなく、頭をはげ散らかした全裸のおじさんが、
両手を空に伸ばし、照りつける太陽に向かって、
腰を回す体操をしているのだった。
その動きは、サザエさんのオープニングで猫のタマが、
果物を二つに割って登場して、
なまめかしい腰つきで踊る姿によく似ていて、
タマがする動きを、裸の人間のおじさんがすると、
このように見てはいけないものを見せられているような、
胸騒ぎのするものになるのだと思ったのだった。
「不思議なものね あんたを見れば 胸騒ぎの腰つき」
という歌詞が浮かんで、勝手にシンドバッドだと思い、
なるほど、サザエからサザンに転位したわけかと納得して、
そういう気づきを与えてくれたおじさんに感謝をして、
ゆっくり目をとじたのは、サウナで瞑想をして、
心が穏やかに、頭がぼんやりしていたせいもある。
ところで、若者はこういう正体不明の体操はしない。
ある年齢を過ぎて、健康への意欲が恥ずかしさを上回った時、
時空の歪みからナニコレ珍百景が顔をのぞかせるのだと思った。


先日の日記にも書いたが、ジムの九周年記念イベントで、
スイカの重さ当てクイズが開催されていたのだった。
ぼくがその掲示を見ていたとき、横にいたおばさん二名に、
「お兄さん、何キロだと思う?」
とスイカの重さを聞かれて、
「8.5キロ」と、適当ではあるけど、
自分の中ではとても妥当だと思う回答をしたのだった。
おばさんたちは、疑うことをせず「8.5」と紙に書いて、
ポストに入れていたのだが、その答えが出ていた。

ごめんなさい。


ジムを出て上大岡方向に歩いて行く、
京急百貨店を通りすぎて、慰霊堂入り口を右折して、
高架をくぐって左折して少し行くと、
日常食生活の価値ある百円のお店
「ローソンストア100」がある。

最近、身の回りで話題になっている、
イナバのタイカレーの缶詰を買うためだ。
ある方がネットでタイカレーがうまいという記事を見つけて、
それをTwitterで流布したため、へもいっ子界隈で、
イナバのタイカレー熱が急速に高まっているのだった。
その人は、会社のお昼用にこの缶詰と白米を持って行き、
レンジで温めて日々食べているらしい。その話を聞いた時、
ぼくは、父親が若く貧しかった学生時代に、
鯖の水煮缶をご飯にのせて、醤油を少したらして食べて、
飢えを凌いでいたという貧乏自慢エピソードを思い出し、
その人を不憫に思ったのと同時に、缶詰のように機能的に、
慎ましく生きることに尊敬と若干の羨ましさを感じて、
水で薄く溶いた青と赤の絵の具が胸の中で混ざり合ったような、
いつかジムの露天風呂で眺めた黄昏時の空のような、
不思議な気持ちになったのだが、そのような感情は、
口にも表情にも表すことは難しくて、できず、
「缶詰いいね、経済的だし」
とだけ言ったのだった。


で、この缶詰はネット上で話題になっているためか、
売り切れている店もあるらしく、
見つけたらとにかく買っておかなくては、
と危機感を抱かせるものになっていた。
ローソンストア100に入って、まずおどろいたのは、
例外もあったが、基本的にどの品物も百円だということで、
そんなことは店名に「100」と銘打っているのだから、
自明のことなのだけれども、ペットボトルのジュースなど、
隣の自販機で百三十円するものが百円で売られていて、
すごいなと思った。イナバの缶詰も他店では百数十円するのに、
百円になっているので、実にすごいと、小さな感動すら覚えたのは、
ぼくが感動をしやすい性質だからで、
そこまですごいことではないことは、頭では理解していた。
ところでぼくは、ここ数年涙もろくなっていて、なぜ泣きやすくなったのか、
涙に至るまでのメカニズムを内観してよく調べたところ、
小さな感動があったときに、それを大きな感動にするためのエピソードを、
脳内でべたべたと補完することによって、感動を水増しして、
涙を流すところまで無理やり持って行っているという、
感動の構造計算書偽造問題が内在していたことに気づいたのだった。
よくない習性がついてしまっていると感じた。
それを裏付けたのは、ジムの更衣室で、
おじいさん同士が終戦の話をしていた時だった。
「終戦の時もこんな暑さでしたね」
この一言には、ハッとするものはあっても、
別段涙するほどのことではないのだけれども、
ぼくは勝手に終戦時のおじいさんの気持ちを思って、
泣こうとしているような節があることに、自分で気づいてぞっとした。
人の数だけ状況があって、本人がそれをどう捉えるか分かり得ないのに、
勝手にいい話を作ろうとする、いやしい自分にイライラしたのだった。
といって、ローソンストア100の店内で、
安さに感動したあまり、涙を流すことにはならないのだが、
小さな感動はあったので、飲食店経営に詳しい友人に、
「なぜ、ローソンストア100は、百円以上するものを
百円で売ることができるの?」と、あとで疑問をぶつけたところ、
それは徹底したコスト削減などによる賜物とのことで、
たしかに思い返すと、店内は倉庫のように殺風景な印象が強かった。
と思うとすぐに殺風景な店内で深夜までアルバイトする男子学生を思い、
彼の身の上のことに想像を働かせて、泣きに至ったかもしれないが、
そんなことで、わざわざ泣いていたらただの馬鹿だ。
それくらいぼくは、どういうわけか涙に飢えているのかもしれない。
とにかく、目当ての缶詰は容易に見つかり、
赤が六缶、青が二缶、黄色が二十缶あった。
ぼくは、赤を四缶、青を二缶、黄色を八缶買い、
結果的に青を買い占めてしまった。赤まで買い占めると、
えげつないと思われそうだから、赤は二缶棚に残しておくところに、
勇気の無さと、奥ゆかしさを装ったずるさのようなものを感じた。
ただ缶詰を買うだけで、これだけのことが頭をめぐるのだから、
疲れてしょうがない。

家に帰って、さっそく赤と黄をお椀に移し、
レンジで一分間温めて食べてみたところ、
タイ料理店で食べる本格的なタイカレーの味がして、
とてもうまかった。ぼくの缶詰に対しての通念を壊すほどで、
これならわざわざ会社に持っていくのも分かる気がした。
貧しいからではなく、おいしいから缶詰を持っていくのだ。


月曜は両親が帰省していたため、妹とふたりだった。
ぼくは月曜から金曜までお盆休みにしたのだった。
朝と昼と夜に「あんた、何食べる?」と聞かれるたびに、
イナバのタイカレー缶と答えたのは、
イナバのタイカレーにはまってしまったからなのと、
暑くて考えるのも面倒くさいというのもあり、
また、一食百円で済ませれば、日中を無為にすごしても、
一日三百円しか使わなかったので、
コストパフォーマンス的にそれなりの生活ができた、
と心を慰めることができるからではあるのだが、
とにかく今週は暇で暇で仕方がなかった。
暇、暇と言いつつも、会社は木・金は営業日で、
ぼくはそこに有給休暇をはめ込んで九連休にしたので、
あまり暇だ暇だと言うのも、出社している人には悪い気がするが、
そんなことでいちいち自責の念に駆られていては、
鬱病になりやすい性格と診断されてしまう。
しかし、そもそも鬱病になりにくい性格だったら、
悪い気がするという気持ちにすらならないものだ。
悪い気がした時点で候補生くらいの資格はある。
妹は缶の中身をお椀に移して、レンジ用のフタを乗せて、
一分間加熱したものを、朝・昼・晩と薬のように出した。
「なんか、猫に餌与えてるみたい」と言っていた。


木曜のジムの帰りは、いつもと違う道を歩いていた。
これまで六十キロだった体重が、六十三キロになっていたので、
少し遠回りをしてカロリーを消費しようとしたのだった。
朝から何も食べずに運動をしたため、空腹でフラフラで、
そこに強烈な日差しで、あまりにだるくて参っていたところ、
遠くに寿司の写真がプリントされた二本の旗が、
バサバサと強風で翻えっているのが見えて、
心の中で七人の侍のテーマ曲が鳴り響きそうな気がしたが、
さすがにそれは大袈裟だと思い、よく心の耳をすましたが、
七人の侍のテーマはどこからも聞こえてこなかった。


旗に近寄って店の場所を見ようとするが、
風が強くて裏返ったり捻れたりしてよく読めない。
持ち帰りができて五百円均一ということは分かったが、
肝心の店の場所が分からない。手で旗の端を引っ張って、
上から下までしっかり目を凝らして恥ずかしくなったのは、
路上の旗をこれほど真剣に読もうとする人を見たことがなかったし、
もしそういう人を見ていたら、「そうまでして見るものか」と、
苦笑している自分が想像できたからだ。
結局、店の場所は書かれていなかったが、
ここに旗があるということは、周辺にあるだろうと、
勘に頼って歩き出したら、あっけなく見つかったのだが、
だいたい店があるとしたらその一方向しかなかなく、
他は住宅街へと続く道だったので、
実際は勘など発揮していないに等しい。
「海の詩(うみのうた)」という、
店頭持ち帰り限定の全品五百円均一の海鮮丼屋は、
この地域にしかない店のようで、メニューは四十四種類もあって、
優柔不断なぼくは、何丼にするか迷う間に熱中症になることを心配した。
メニューにある写真はどれもネタが大きく、
「五百円でこの盛り付け? そんなまさか」
と思ったが、注文した「びんとろ丼」を見て、
写真とほぼ同じなので少し感動をして、
ここも涙ぐましい努力でコスト削減を徹底しているのだと、
目頭が熱くなるほどではなかったがそう思い、
醤油を取って店をあとにして、
公園のベンチに座って食べることにしたのは、
我慢ができないというのもあったが、外で食べるというのは、
いかにも休日ならではという感じがしてよいと思ったからだ。
それにしても汗が止まらない。


驚きのボリュームと鮮度で、脂がのっていて実にうまかった。
イトーヨーカドーでパックの寿司を千円で買うことがあるが、
それよりこちらの方が安くてうまい。
最近、安くてうまいものばかり食べている。


家に帰って水のシャワーを浴びてから、
アクリル絵の具とカンバスを出してきて、絵を描くことにした。
カンバスや絵の具は、京急百貨店の七階、
「リビング・家庭用品・文具・事務用品/商品券/催事場」という、
他のジャンルではくくれない商品をワンフロアに押し込んだような、
穏やかに混沌としたフロアがあり、そこの鴨居堂という店で買った。
これまでくっきりした色合いの絵を描いていたので、
ぼんやりした絵を描きたいと思って、
水をたくさん含ませて、色を混ぜて描いてみた。

水ようかんのような涼しげで透明感のある、
しーなねこの絵になったが、ぼんやりしすぎていて、
「ああ、ぼんやりしすぎているなあ」
と思ったので、自分の部屋には飾らずに、
妹の部屋に勝手に飾っておいた。それから、
ダンボール箱があったので、それにも絵を書いた。
ダンボールは、イナバのタイカレー缶と白米を
会社に持って行く際に使おうと思ってamazonで買った、
パイレックスという耐熱強化ガラスのタッパーが入っていた。

タッパーは、お弁当用には大きすぎで、
買ったものの半分のサイズでよいと思ったが、
それはそれで、まあ、使い道はあるのでよいと思った。
ネットで買い物をするときは、サイズをよく調べ、
紙に実寸で描いてみて、しっかりイメージした方がいい。


夜、このまま一日が終わってしまうのもあれだと思い、
近所のスーパー銭湯へ出かけた。先日千円で買った、
中古の黄色いTシャツと、ライトオンで数年前に千円で買った、
青い短パンを穿いて、サンダル履きで出た。
露天の五右衛門風呂に入って、釜の縁に足を引っ掛けて、
夜空を見たら星が見えて、しばらくして祖母のことを考えた。
山口県に住む祖母は認知症が進んでぼんやりしたり、
身内のことも時々忘れてしまう。
両親が数日前に山口に行った時、
「タカヒコのこと覚えてる?」と祖母に聞いたら、
「……ぼうず」とだけ言ったとのこと。
いたずら坊主って言いたかったのかもねと母は言った。
たしかにぼくが山口に遊びに行っていたときは、
小学生の頃がもっとも多くて、庭に穴を掘ったり、
危ないと言われている裏の山へ入って行ったり、
ソファーを移動させたり、引き出しを開けたり、
いたずらばかりしていたのでそういう印象があるのかもしれない。
祖母はゆっくり水を飲んで、コップをテーブルに戻す時、
テーブルの脇のとてもぎりぎりのところに置いたり、
ご飯を少しだけ、とてもゆっくり食べているらしい。
この前は、寝る前におまんじゅうを二個も食べて、
朝、吐いてぐったりしてしまって、皆で心配をしたのだが、
いまは、そうめんを少し食べて、持ち直している。
会いたいと、と強く思った。
そして、母や伯父さん、伯母さんさんにとっての母だけど、
ぼくにとっての母や父も、いつかそうなっていくのか、
そして自分もいつかと思うと、胸がざわざわしてきた。
祖母はみずからのいまの姿を想像していたのだろうか、
元気でよく話していた頃を思うと、さみしくなる。
目に映る星を見ていると、いろいろな考えが浮かんでくる。
星はそのような人間ひとりひとりの盛衰を見届けて、
そこにあるのだろうけれども、星もいつかは消える。
無間の魂を含んだ宇宙は、いまは夏の空気でねっとりとして、
ぼくの身の回りや、周囲の人々を包んでいた。


家に戻る時に、環状二号線の脇にある中華料理屋の前の茂みに、
小さい猫がいたので、かがんで背中を撫でた。
びくっとしてこちらを少し見たが、すぐに茂みを向いて、
熱心に草を噛んでいた。夜の十一時になっていたが、
猫はこの時間になっても、いや夜行性だから、
この時間だからこそ遊んでいるのかと思った。
首輪をしていたから中華料理屋さんの猫なのかもしれない。