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小説集『突き抜け』のご購入はこちらから。



連休中は読書をしたり映画を見たりしたのだったメモ。

三連休はそれなりに充実した日を送りました。
風邪もそれなりに良くなってきて、
金曜の夜にSさんに髪を切ってもらったのでした。
お酒は飲まずに家に帰って、
ゆっくりよく噛んで腹八分目まで食事。
借りておいたDVDを観た。

ニーチェの馬 [DVD]

ニーチェの馬 [DVD]

タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』という映画。
すごい映画だった。晩年のニーチェがトリノで、
ムチに打たれ疲弊した馬車馬の首に抱きついて、
そのまま発狂してしまったという話から着想を得て、
作られた映画らしいです。
馬で収入を得る老人の農夫とその娘の生活を
延々と描く作品なのですが、おどろいたのは、
そのリアルさです。農夫は右手が不自由で、
着替えは娘に手伝ってもらったり、
娘は井戸に水を汲みに行ったり、
馬の世話や小屋の掃除などをするのですが、
そのひとつひとつが、もう何年もそこで暮らして、
ずっと積み重ねてきたような古びた味わいがあるのです。
そして、これらの生活のひとつひとつの作業を丁寧に、
描き続けているのです。映画は七日間の話で、
毎日が同じことの反復です。起きて、水を汲んで、
着替えて、馬の世話をして、食事して、寝る。だけ。
あと映画の中では凄まじい強風が終始吹いています。
で、例えば水を汲むのは娘の仕事で、毎朝、
家の前の数十メートル離れた井戸まで行って、
バケツを手繰って二回水を桶に移して、
それを家まで持って帰るのですが、
その作業がノーカットで五分くらい(?)続くのを、
見続けるのです。しかも毎日ありますので、
水汲みだけで映画の十数分は占められるのですが、
まあ、もちろんそんなにじっと見ていたら、
毎回同じですから、他のことを考えてしまいます。
「これは一体なんなんだ!?」と。それでも、
水汲み以外にも馬に荷馬車用の金具を付けたり、
小屋を掃除したり、農夫を着替えさせたり、
じゃがいもを食べたりと、これらも角度が違うだけで、
毎回同じ仕事を何分間も見続けることになりますので、
「これは一体なんなんだ!?」を通り越して、
ニーチェのこととか、ニヒリズムについてとか、
作中に聖書が出てくるので天地創造のこととかを、
なんだろうなあ、なんだろうなあ、とひたすら考えて、
眠くなったりしつつ、楽しみました。
ネタバレということでもないと思うのですが、
結末を知りたくない人は読まないでほしいのですが、
七日間が、一日一日進むに連れて、
馬が仕事をしなくなり、そして馬が草を食べなくなり、
水を飲まなくなり、いつも汲みに行く井戸の水が突然枯れ、
油は入れてあるのにランプが点かなくなり、
火種すら消えてしまい、ゆっくりゆっくり終末へ、
暗闇になっていきます。
これは監督のインタビューで見たのですが、
天地創造の逆を描いたそうです。
まあ、それはそうとして、なんというか、
不穏な気持ちだけが残って、なんだったんだろうなあ、
またしばらくしたらちょっと見て考えてみたいなあ、
と思う作品でした。


連休の終わりの日に小説を読んだのでした。
メルヴィルの『代書人バートルビー』。
なぜこれを読んだのかというと、
図書館で借りていた『新編バベルの図書館』を、
まだ一作品も読んでいないのに返さないといけなくなって、
最後に収録されていて手頃な長さだったからというだけで、
読んでみたのでした。

メルヴィル ― 代書人バートルビー (バベルの図書館 9)

メルヴィル ― 代書人バートルビー (バベルの図書館 9)

そうしたら、これがすごくよくて、
まったく偶然なのですが、『ニーチェの馬』と、
ぼくの中でシンクロしてなんだろうこれはと思ったのでした。
『代書人バートルビー』は寓話的な物語で、
カフカに先駆けた不条理文学とも言われている作品で、
あらすじは、ある法律事務所の所長がバートルビーという、
元気のない亡霊のような男を採用するのですが、
最初はきちんと仕事をしていたのに、
そのうち仕事をしなくなって、どんな小さな作業を頼んでも、
「せずにすめばありがたいのですが」と言って、
まったく働かなくなるのです。
働かなくなるので、追いだそうとするのですが、
「せずにすめばありがたいのですが」と言って出ていかず、
事務所自体を移動しても、その場にぼーっと残って、
最後は刑務所に入れられて、事務所の所長は慈悲深い人なので、
彼にいいものを食わせてやってくれと食事係に頼んでも、
バートルビーは「せずにすめばありがたいのですが」と言って、
何も食べずに、そのうち石の上で横になって死んでた。
という話。これも読み終わったあとに、
えも言われぬ気持ちになって、なんだったんだろうなあ。
と繰り返し思って、ずっと残りました。


で、そうそう、シンクロしたというのは、
『ニーチェの馬』の馬とバートルビーです。
どちらも段階的に働かなくなり、食べなくなり、弱っていく。
そして、『ニーチェの馬』に出てくる娘は、
聖書を指で追いながら一語一語読む。
バートルビーの事務所の所長は熱心なキリスト教徒。
なんで馬もバートルビーもそうなっていったのか、
生きることと働くことの宗教的な意味とか、
消化不良のまま、ずっと心にあって、
しばらくは、悩んでしまいそうですけど、
こういう作品こそ、いい作品だなあと思います。


そういえば、佐々木中さんの
『切りとれ、あの祈る手を』の中にこういう文章があった。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

現存最大の作家の一人である古井由吉さんが
最近のインタビューで素晴らしい文言を口になさっている。
いま現在の自分が理解できないものには
価値がないという風潮が定着してしまった、
と前置きしてから、こう言うんです。
文学など落とし穴だらけで、
うっかり理解したら大変だという作品が多い、と。
(中略)
うっかり理解したら大変です。
グリューンヴェーデルが「わかった!」と絶叫した瞬間何が起こったか。
カフカやヘルダーリンやアルトーの本を読んで、
彼らの考えていることが完全に「わかって」しまったら、
われわれはおそらく正気では居られない。
書店や図書館という一見平穏な場が、
まさに下手に読めてしまったら発狂してしまうようなものどもが
みっしりと詰まった、殆ど火薬庫か弾薬庫のような
恐ろしい場所だと感じるような、そうした感性を鍛えなくてはならない。
(中略)
古井さんは続けてもうひとつ、
こちらとしてはもう恐れ入ってしまう様な事を仰っていて、
要するに読んでいてちっとも頭に入らなくて
「何となく嫌な感じ」がするということこそが「読書の醍醐味」であって、
読んでいて感銘を受けてもすぐに忘れてしまうのは、
「自然な自己防御」だと言うんです。
だから読み終えると忘れてしまうし、ゆえに繰り返し読むのだ、とね。
こういうことを飄々と言ってのけてしまう人が
同時代に生きていてものを書いて居るということを、
いつも念頭に置いておかなくてはなりません。

そうそう、「何となく嫌な感じ」がすごくしました。
この「何となく嫌な感じ」がしている間は、
ぼくは神経が静かになっている感じがします。