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十月のメモと雑記

日記に書こうと思いながら書けずに日々がすぎていく。
思ったことはメモにして、まとまったら自分宛てにメール。
送信するまでは「書かなきゃ!」と思っているけど、
読み返すと、たいしたことじゃなかったりする。
この機会にいろいろここに書いておく。

取引先の人とするはじめの数分間の世間話が好きだけど、
本題に入ると途端にしゃべれなくなります。

こんなことをわざわざメールで自分に送っている。
しかも語尾は「なります」とデスマス調。
それはさておき、たしかにこれはよくある。
雑談から業務モードに切り替わる瞬間がある。
業務モードになると、話の内容がわからなくなる。
緊張するというのがあると思う。
切り替えの緊張感が苦手で、つい身構えてしまう。
噺家さんが羽織を脱ぐと、やっぱり少しわからなくなる。
どうでもいいこととか即興なら頭に入ってくる。
形式に従ったものとかあらかじめ決めてきたことだと、
全然入ってこない。同じく話す方もできない。へもい。

萎園芸(なえんげい)ウォークしたい。
鑑賞・撮影しながらみんなで歩く。

スナックの店先などの、エアコンの室外機の上や、
吊り下げられている植木鉢は、たいがい萎えている。
その萎えた園芸を「萎園芸」と命名して集めたい。
どうせやるならみんなで撮影しながら歩きたい。
鎌倉から桜木町までの鎌倉街道にたくさんある。
興味ある方いたら、お声がけください。

「これについては、どんなに説明をしてもらってもわからないだろうな」
ということは瞬時にわかる。自分でもおどろくほど。

歳を重ねるにつれて、できることとできないことの、
判別が早くできるようになってきた気がしている。
すまない気持ちはあるのだけど、できることしかできない。
そして、やりたいことしかやれない。本当は、できたらいいし、
やりたくないこともそれなりにできるのがいいはず。
二十代では、できる気がしていたし、それなりにしていた。
けど、それが体質的にできなくなってきてしまった。
これが加齢というものなのかもしれないと思うと震える
(といってもまだ三十代前半です)。
しかし、自分に諦めのようなものが付くと楽になった。
できないことをしようとすることや、
やりたくないことをするストレスはマジパない。
おまけにパフォーマンスが出ないから周囲に迷惑をかける。
だから、自然に(強制的に)選択と集中をするようになった。
そうすると、パフォーマンスが出るし、
まわりもよろこんでくれる。その線でいきたい。

余裕がないひとはきらい、というのも余裕のない話。

こんなこと書いたっけと思う。でも、その通りだと思う。
「きらい」というネガティブな反応が、
フィルタリングされずに感情として現れるのは、
良し悪しを精査する余裕が心にないからなのではと思う。
あと、「○○がきらい」と反射的に出てくるものは、
心理学の交流分析でいうラケット感情のようなもので、
これまで生きてきたなかで付けてきた心の傷が原因している。
ぼくには勝手なイメージがあって、
愛のエネルギーを流すパイプがあって、
パイプに傷があると、傷からエネルギーがピューッと漏れる。
漏れたエネルギーは愛に似ているけど執着のようなもので、
それは売り物になったり人を惹きつけたりするけど、
よい結果にはならない。生は一向に満たされない。
ビュウビュウ漏れれば漏れるほど、
きちんと出力される愛はどんどん少なくなる。
傷が多い人は、余計な箇所にエネルギーを浪費して生きづらい。
なんの話だっけ。とにかく、傷を治すことだ。または、
傷をきちんと認識して本流へのバイパスを作ること。
そうすれば、ゆっくり人生を充実できるんじゃないかと思う。

たくさんの人に話を聞かれて、それに答え続けているうちに、
こちらが言いたいことと、相手が求めていること
(それは媒体の種類や切り口によって異なる)が見えてきた。
まずはその線で話したり書いたりする。ニーズを満たす。
その上で、オリジナリティをのせる。

エクストリーム出社の取材を何十回も受けて、
ニーズを意識するようになった(ようやく!)。
相手は求めるものがあって、それを受け取りにやって来る。
こちらは、求められているものをきちんと把握して正しく返す。
自分がおもしろいとか価値があると思っているからといって、
求めていないことを言っても相手には価値がない。
気持ちはいいけど、自己満足にしかならない。
もちろん、求めているものを持っていないときは、
正直に持っていないと返さないといけないし、
すべて相手に合わせて返す必要もないと思う。
だけど、お互いに価値が生まれるときは、
需要と供給が一致した時なんだなとしみじみ思う。
これは取材にかぎらず、友人や恋人との関係や、
就職面接とか、企画とか、なんでもそうだと思う。
だけど、要求されるものを返していても、盛り上がらない。
だから付加価値のようなサプライズのようなものを付ける。
そこではじめて、オリジナリティみたいなものが許される、
という気がしている。
「型のある人が型を破ることを型破りといい、
型のない人が型を破ることを型無しという」
これは歌舞伎の中村勘三郎さんの言葉だけど、
なるほどなと思う。ニーズを見極めるために、
常に自分の認識を磨いて、細かい差もわかるようにしたい。

みんながやっていて、表現にまでは昇華されていない、
おもしろいものを見つけて、コンテンツにすること。
それを広めてつなげて文化を作る。
コンテンツにするというのは、
ワーディングして、パッケージングして、
わかりやすくてだれでもできるようにすること。
みんながしあわせになるということが大前提。

覚え書。
「みんながやっていて、表現にまでは昇華されていない」
と書いてあるけど、
みんながやっていなくても、表現されたものを知ったら、
やらずにはいられなくなるおもしろいものでもいい。
やっぱり、「みんながしあわせになる」ようにしたい。
知名度を上げようとか、モテようとか(モテたいけど)、
そういうことを目指してやるのは、前述の心の傷によるものだ。
きっといつか破綻する。傷がなければ、
パイプを伝って源泉かけ流しの愛のエネルギーが出る。
そのエネルギーを流していれば、みんないい感じだと思う。
最近は、そういうことをよく考えている。
あるがまま、求めずに受け入れて生きるみたいな。



あと、イッセイ氏とダヤンさんが入籍するとのことで、
その証人というのになった。ハンコを押した。