「幸せとは何だ」サイキック対決で得たこと

酒の席で、「幸せとは何だ」という話になったのですが、
僕が「幸せ」について考えるときに、いつも思い当たるのは、
イガラシイッセイとやった「サイキック対決」のことです。


サイキック対決とは、各自である物を都内のどこかに埋め、
相手が埋めたものを、サイキック(超能力)を駆使して、
探し当てた方が勝ちという、非常にバカげた遊びです。


スタートしたら、両者、瞑想やらタロットカードやら、
ダウジングを使って、ターゲットの位置を予想します。
しかし、この予想が正しい可能性は、ほぼゼロなのです。
ゼロだと分かっていると、家から出るという
行動を起こすのが面倒になるのですが、
ゲームなのだから一応動き出さないと始まらない。


そのとき、動き出す動機になるものは、
「ターゲットはあそこにある!」
強く信じることだけだったのです。



目標がなくても高揚感は実際にあった。

そして、予想したターゲットの位置に向かっていくと、
偶然なのですが、瞑想で浮かんできた図柄と、
合致するようなオブジェが、実際に見つかったりするのでした。
結論から言うと、当然ながら、その一致は勝手な解釈で、
ターゲットとは全く無関係のものだったのですが、
この、「見つかった!」と思ったときに感じた、
「感動」や「喜び」といった高揚感は、実際にあったのです。


つまり、人生における幸せも同様で、
生きることに明確な目的、幸せ(ターゲット)は存在せず、
各自で、ターゲットはあそこにあると勝手に予想し、
それを頑なに信じて盲目的に走る、ということなのではないでしょうか。
そして、走っている最中に感じる、サイキック対決における偶然の一致、
ターゲットに近付きつつあるという思い違いから生じる高揚感こそが、
いわゆる「幸せ」なのではないでしょうか。


その幸せを感じ続けている間に、寿命がくれば、
「幸せな一生を送った」と言えると思います。
もし寿命までに、予想したターゲットの位置に辿り着いたとしても、
そこに何も埋まっていないことが分かれば、
また別の位置を再設定して、信じて走り出すでしょう。


そんなことを、サイキック対決をしたときに思ったのです。
そして僕は、真の幸せはない、幸せを探すプロセスの中に幸せがある、
しかし、永遠に走り続けるのはあれだ。だから、何とかならないかと考えて、
「生きているだけで幸せ」と、一番近いところにターゲットを想定して、
掘り返さずに感じるだけにしようと思いました。
すると、何でもありがたく幸せに思えてくるので、いいと思うのですが、




まあ、そんなにうまくはいきませんよね。