「しーなさん、ブログなくなったら、死んじゃうでしょ」

最近思ったのは、僕は何でも、
普通なら秘密にしておくことも、
ブログに書いたり、人に話してしまうのですが、
これは、なぜなのだろうということです。


中でも、自分に起こったことや、自分の考えたことは、
ブログに書いておかないと気がすまないし、
数年前からは、行動した結果をブログに書くというよりも、
ブログに書くために行動している、
という、おかしな状態になっています。


それで考えてみたのですが、どうも僕が、
ある出来事を書いたり言ったりしないと、気がすまないのは、
隠しごとがきらい、というような高尚な理由ではなく、
そうしないと、その出来事が、自分に起きたこととして、
認識できなくて不安になるからだと思いました。


以前に、これは黙っておいた方がよいというような出来事があって、
それをどこにも発表しないで、個人的なメモにだけ書いていたら、
それが現実にあったのか、自分のことなのか分からないくらい、
まったく臨場感がなくなってしまったのです
(結局、我慢できなくなって話してしまいましたけど)。
だから、表現が誰かの記憶に残って、
誰かの意識から、僕が認識されたときにだけ、
僕が存在して生きていると感じているようだと分かりました。


で、これは誰でもそういう性質が、程度の差はあっても、
あるのかと思ったのですが、ブログをやってなくても、
普通に暮らしている人もいますし、
むしろそういう人の方が健全な気がします。
僕の場合に限ると思いますが、何か病的なものがあって、
それを慰めるために、いろいろしているような気がしました。


だから、よくこう言われます。




「しーなさん、ブログなくなったら、死んじゃうでしょ」




たしかに、そうかもしれないなと思いました。
でも、もっとまずいと思うのは、
書いたり言ったりして、誰かの中にできた僕がメインで、
肉体の僕が不在になっているということです。
満遍なく、いろんな人の中にあるけど、僕が無い。
いろんな人の中にある自分こそが、自分を構成するという
見方もあって、その通りだと思いますが、
僕の場合、それが極端に薄い。抽象的すぎる。


僕らしき肉体は、現象を作る装置であり、
フィードバックを確認する監視塔みたいな、
空洞で無機的な、機能だけのものになっちまっているのです。




だから、モテない。




いや、今はそんなことは問題ではない。
何でこうなってしまったのかは、思い当たることもありますし、
どうすることもできない、絶対的な欠落だと思いますが、
逆方向に過剰に中和するようなことをしていけば、
きっと、おもしろいことができると信じています。


なんなんだろうなあ。