スニーカーを洗った。抽象的なことについて考えた。

昼に起きて、スニーカーを洗って干しました。



妹がカツ丼を買って来てくれたので食べて、
ビールを空けて、文庫を読んだり、
最近考えたことを、妹に延々と話していたら、
突然、妹が昼寝を始めました。


夕方、浴衣で外に出て帰ってきて、
ビールを3本空けて、また妹に最近考えたことを
延々と話していたら、午前1時を過ぎていて、
妹が寝たので、部屋に入って文庫を読みました。


ガーーーーーッといって、クッ!カッ!と
いきたいもんですね。



僕がロボットみたいな件。

昔、大学の先輩に
「しーなくんって、ホンダのASIMOみたいな動きだね」
と言われたり、岡田斗司夫さんに
「『2001年宇宙の旅』のHALの話し方にそっくり」
と言われたことがあって、イヤじゃないんですけど、
なんでそうなってるんだろう。
と思っていたのですけど、分かったんですよ。


抽象的なレベルの問題だと思うのです。
例えば、僕を「しーな」と捉えるか、男性と捉えるか、
人間、生物、自然、宇宙かという具合に、抽象化の程度によって、
見え方が変わっていきますけど、
ひとそれぞれ、どの程度で見るかが、
生まれつきか何なのか、決まっているのだと思います。


同じように、コミュニティも、
個人、家庭、組織、企業、地域、日本、世界、宇宙、
というように抽象的になっていって、この場合、
行動する際に、どこをターゲットにするかの、
基準になっているのだと思います。
例えば、「モテたい」場合、
「個人」レベルの人は、恋人にだけモテれば満足ですが、
「日本」レベルの人は、日本人みんなからモテたいと思う。
個人レベルの人は具体的なので、誰かを「女性」と捉えて、
集中的にアプローチしますが、日本レベルの人は、
皆を「人間」と捉えるから、博愛的になって恋人ができない。
そういうことじゃないだろうか。違うか。


人間同士の争いも、
このレベルの違いによることが、結構多い気がします。
ただ、抽象的な人が具体化して見ることはできるけど、
その逆は難しくなっている気がします。
それは、オブジェクト指向みたいなものだと思います。


で、具体的・抽象的どちらがよいとかないと思うのですが、
僕はおそらく抽象的過ぎるのです。
ところで、集中力について言えば、
一般的には、具体的なものに対するものだと思います。
だから、具体レベルの高い人の方が、集中力があると思われ、
抽象的な人は集中力がないと判断されがちですが、違うんです。
僕は集中力がないわけじゃないんです。
言い訳にしか聞こえないと思いますが、




満遍なく集中しているだけ




なんです。
それで本題の、僕がロボットみたいなわけですが、
きっと、自分に集中できていないからではないでしょうか。
どうも、操縦者がずっと抽象的なところにあって、
端末みたいな肉体を遠隔操作している気分がするのです。
それに対して具体的な人は、ロボの中に入って、
エヴァンゲリオンみたいに、シンクロ率が高いのです。


で、どうすりゃいいんだって話ですけど、
どうでもいいと思いました。
漫才とかする上では、1対1で話すより、
100人に聞かせることに意識が行った方がよいからです。
でも最高なのは、100人を相手に、
まるで1対1のような親密さで語りかけることなんだろうな。
それが技術なのだろうな。両方したいです。