ぼくが二十歳の時、いまのぼくを見たらおじさんと判定してただろう。

自分が成人したくらいの年頃に、
「この人は、おじさんだな」と、
はっきり認識していないにしても、
なんとなくおじさんに分類していて、
お兄さんに対するのとは別の、
いくらコミュニケーションをしても、
きっと自分の本意はわかり得ないだろう、
わかったふりはするだろうけど……、
という柔らかい大きな壁で隔てられた、
おじさん用の接し方に切り替えていた、
その対象の年齢層に、いま、はさまりこんで、
じっとしているぼくがいます。


ということを意識しすぎて、
自分で自分のことを「おじさんだから」と、
自嘲していうのは、きっと三十代中盤が陥りがちな、
典型的な罠ではないかと用心をしています。
「あー、もう眠くなっちゃったわ、おじさんだから」
「あれ? この話前にしたっけ、忘れちゃった、おじさんだから」
「くしゃみするとき屈伸使わないと、腰にくるのよ、おじさんだから」
このように、「おじさんだから」は「人間だもの」と同じくらい、
油断すると滑り込んできては、人間の意志を冷やし、
堕落を肯定し生を諦めさせる隙間風のような言葉です。


罠の恐ろしさは、これだけではありません。
「おじさんだから」と言い添える三十代中盤の多くは、
自分のことを心からおじさんだとは思ってはいない、
いや、やっぱりおじさんかもしれないという、
絶望と希望の二色に分けられた平均台の上で、
震えながら歩みを運ぶピエロのような存在に陥るのです。
笑わそうとする自分を客観視しているこのピエロは、
その実、周囲どころか自分自身からも笑われるのです。
これが、「おじさんだから」と言うことの最大の毒です。
だから、だれも自分のことを「おじさんだから」とは、
言ってはいけないのです。他人のことをいう場合は、
本人の耳に入らないところで、そっと言いましょう。


ところで、「おじさん」とは、そもそも何なのでしょう。
年齢的な定義はあるのでしょうか。辞書を引きます。

おじさん
他人である年配の男性を親しんでいう語。
また、中年の男性が、子供に対して自分自身をさして言う語。

年配とは中年以上にいう言葉なので、
おじさんとは、「中年の男性」と考えてよいと思われます。
では、中年とは。

中年
青年と老年の間の年頃。
四〇歳前後から五〇歳代後半あたりまで。
壮年。「――太り」

そうです、「四〇歳前後から」人間の男は、
中年、すなわち、おじさんへの変容の蓋が開くのです。
つまり、ぼくは、まだおじさんではなかったのです。
では、ぼくは何なのでしょう。

青年
青春期にある若い男女。
一四、五歳から二四、五歳頃までをいうが、
広く三〇代をも含めていう場合もある。
若者。わこうど。
「――の主張」「――実業家」

二五までとは書いてありますが、
「広く三〇代も含めて」というところを、
ちょっといただけますでしょうか。
お願いです、そこ、わたしにいただけますでしょうか。
ということで、ぼくは青年であり、若者だったのです。
ようするに、ぼくの二十歳前後の、
おじさん判定に欠陥があったということです。
お騒がせしました。


それにしても、青年が青春の「青」、
老年が老いの「老」であるのに、
その間だから「中」年ということなのでしょうか。
だとしたら、この相対的な名付けられ方に、
この年代に対する投げやりな態度に不安を感じます。
例が「中年太り」というのも。
中年と付いてポジティブな言葉はないのでしょうか。
「青年の主張」「青年実業家」は、いかにも清々しい。
一方、「中年の主張」となると、まず聞きたくない。
自己中心的な身の上話を、加齢臭とともに、
延々とデカい声で聞かされそうな印象があります。
というか、ぼくのイメージがひどすぎます。
「中年実業家」は、金のネックレスと指輪をして、
ストライプのスーツで、自慢話を加齢臭とともに、
延々とデカい声で聞かせてきそうな印象があります。
この中年の一人称は「ワイ」です。
やはり、ぼくの中年に対するイメージはひどい。


実際、そういう中年の方を見たことはないですが、
いつまでも若くいられるよう、
「おじさんだから」と言うのはやめ、
いっそのこと原点に回帰し、
「赤ちゃんだから」と言い張って生きたいと思います。