九連休だったのだけど、基本的に家にいて寝ていた。
旅行へは行かなかった。出かけるのも疲れてしまう。
明け方まで読書をして昼まで眠って、喫茶店へ行き、
夕方にジムで運動。よろよろ家に帰ってくる。
体と神経を充分に休ませることができた。
毎日、何かしら送られてきた。
amazonに注文した本や、友人からのプレゼントや、
エクストリーム出社が特集された掲載誌など。
それらを机の上に置いて、昼寝の合間に見たり、
お返事を書いたりしてすごした。
以前に名古屋や東京でお会いしたKさんが、
手作りの本を送ってくださったのだった。
製本をご自身で手がけた限定十冊のうちのひとつ。
手作りの本を手にするのは初めてだったのだけど、
本の各所に込められている念のようなものの、
総合的なエネルギーが両手の中で膨らんで、
やさしく、背筋が伸びる感じがした。
収められている小説もおもしろく、
内容が本そのものとリンクして感動して、
とても励みになったのだった。
3月13日(木)
船橋を散歩した。
円形の道路があるというので歩いてみたのだ。
そのあと神保町まで移動して、古書店を廻って、
欲しかった本を手に入れた。
帰宅ラッシュになる前に家に帰った。
しばらくすると嵐になった。強い雨と風。
この日は両親が旅行に出ていて、ぼくと妹だけだったので、
宅配寿司を注文したのだった。嵐なので気が引けた。
約十五分でインターホンが鳴ってドアを開けると、
高校卒業したぐらいの女の子が、
びしょ濡れのカッパで立っていて、
かわいそう! と思ったけど、声はとても元気で、
「こちらサービスの粗汁です!」
と言って、ポーチからビニールでぐるぐる巻きにした、
カップを慎重に取り出してくれた。
魔女の宅急便がオーバーラップして、
少女が去ったあとも、暗い玄関の冷たいドアに向かって、
しばらく茫然としていた。
粗汁を取り出すときの、ぼくの目など気にせずに、
真剣に俯く女の子の頬ぺたの赤さが印象に残って、
よりによって極上寿司かよ! と思った。
超うまかった……。
3月14日(金)
会社へ少しだけ行った。
今年のホワイトデー担当だったのだ。
同僚の女性社員に、グループの男性たちを代表して、
お菓子のお礼をするので、
前日の晩にクッキーを七十枚焼いて、
十二枚ずつ袋詰めして持って行った。
クッキーを置いてすぐに去った。
会社を出て、とくにすることがなかったので、
京急の大師線で川崎大師へ行ってお詣りした。
そのあと、家の近所の公園のベンチに腰を下ろした。
喉が少しかわいていたのだけど、自販機で売っているのは、
甘すぎたり、冷たすぎたり、濃すぎたりして飲む気がしない。
気持ちにいちばん寄り添ってくれそうな飲みものは、
白湯だったのだけど売っていないので、あきらめて帰った。
3月15日(土)
YUさんがアンディ・ウォーホル展の
チケットをくれるというので森美術館へ出かけた。
その前にワタリウム美術館へも行ったのだった。
齋藤陽道さんの写真展。この日が最終日だった。
齋藤さんの写真は、どれも愛おしいものだった。
それでいて、切なくて、さみしい感じもしていた。
齋藤さんは耳が聴こえないそうだ。
美しい楽器の写真、演奏する人の写真などもあった。
音を聴くことができない人にとっての楽器は、
音を聴くことができるぼくにとっての何だろうと思った。
たとえば、味わったことのない食べものの写真?
かと思ったけど、それは違う、味覚があるから。
聴覚がない人にとっての音って、
霊感がない人にとっての霊みたいなものかもしれない。
霊はあるかないかわからないけど、音はあるのだから、
あるものがないことになるということは、
どんな感じなのだろうと思って写真を見た。
ぼくがいちばんぐっときたのは、
五歳くらいの女の子が飴を舐めている口を開けている写真。
彼女の柔らかいからだや、それを包むやわらかい服、
甘いと感じているであろう味覚、
作者には聴こえないはずの音などすべて、
いま・ここが全力で愛しく思えてくるのだった。
そして瞬間や生命ってとても儚くて、
ふよふよしていて、輝いている。
齋藤さんの言葉が壁に書いてあって、
そこにあった「黄金の光に向かうシャボン玉」というのは、
ああ、これのことなのかなと思った。
そのあと、森美術館でアンディ・ウォーホル展。
こちらはすごい混雑で、ゆっくり見れる感じではなかった。
アンディ・ウォーホルが書いた本、
『ぼくの哲学』を事前に読んでいたこともあって、
なるほどなあと思って見た。さみしさをたくさん感じた。
さみしさや虚しさが広く蔓延したから、
ポップがそれになったのだろうなと思った。
facebookやTwitterでパーティーの様子を公開して、
コピーが可能な写真を大量に流しまくっている。
ブログに自分の生活を書いて切り売りする。
ウォーホルのやっていたことが、
より強く浸透して一般化してるようだと思った。
五反田の居酒屋「それがし」で、
つしまさんと合流して日本酒を飲む。飲みすぎる。
西小山へタクシーで移動して、YUさん行きつけの店で、
うまい担々麺を食べて帰った。
3月16日(日)
食べすぎだとわかっているのに食べて、
運動もしないでいると肥満になって、
具合がわるくなってよくない。
ということはわかるのだけれど、
何かを書いたり作ったり、アウトプットをしないで、
本を読んだり、映画を見たり、展示を見に行ったり、
インプットを続けてしまうことについては、
よくないと感じていなかったと思った。
体と同じく、頭も肥満するのだろうか。
インプットしたものはきちんと消化して、
食べた分は運動でカロリーを消費するみたいに、
汗をかいて何かしらの形にアウトプットするのが、
自然なのだろうなと思った。
食べものや、情報にかぎらず、愛情もそうだと思う。
自分からも対象を定めて愛していかないと、
愛情の肥満のようになる気がしている。
足りているのに、愛を貪っていると、
愛の循環のさせ方がわからなくなる。
そんな気がしている。
体を動かそう、頭を動かそう、心を動かそう。