ぼちぼち楽しくやっとります

最近よく外で飲んでいる。仕事でお客様先へ行くことが増えたからで、
リモートワークが基本で家から一歩も出ないことが週何日もあったので、
外に出れるだけでも楽しい…

京浜東北線と山手線が止まって、品川で足止めになって三田まで歩いたのも、
こういうのいつ以来だろと祭りのような気分になった。

お昼は外食をしている。GoogleMapで気になったところへ行って、
秋葉原なんですが、当たりが多い。基本、大盛り。

また、帰りにも都内で飲んだり、友人と会う機会も増えた。
リモートワーク3日と、外出2日ぐらいがちょうどよい。

 

最初AIを使って作成された映像と音楽なんだなと思ったのだけど、
少しするとそんなことがどうでもよくなるぐらい圧倒される。

世の中では、AIを創作に使うことの賛否や、
クリエイティブにAIが使えるとかまだ使えないといった議論がされているけど、
これを見ると、それらがどうでもよくなる。

AIが自分の仕事のQCDを上げるという次元ではなくて、
そういう延長線上にない、別の評価軸で測るしかない圧倒的なもの。
尋常ではないAIの使い方をしていそうだし、すごく試行錯誤をされているのだと思う。

才能とは狂気と形式だとある小説家が言っていて、
狂気がすごくてもそれを形にできなければただの狂人だし、
形式化(言語化など)がうまくても狂気がなければつまらないものになる。
AIは形式化が高機能になったのではないかね(これを使いこなすスキルが重要)。
狂気は人間にあって、何をする・あれをしたいみたいな
ユニークで強烈な想像力と、形式化がうまく融合すると、
こういう作品になるんだなと思いました。

 

2025年をふりかえる

eyecatch2025年のうちにふりかえっておけばよかった……。
1年以上(2年?)こういうテキストを書いていなかった。ほんとあっという間ですね。

2024年の12月から、亜急性甲状腺炎というのになって2025年3月までずっと微熱が続いていました。少しでも動くと熱が出るので散歩もできなかったのですが、リモート勤務がメインの会社なので助かりました。

甲状腺が治ってきて、4月から新しいプロジェクトがスタートして、PMとして働きました。要件定義から11月末のリリースまで、本当に勉強になりました。とても忙しくて、気づいたら12月になっていました。だから、ふりかえることがない。記憶もあまりない。
SNSを見て思い出してみます。

1月

観葉植物の植え替えをした。小さい植木鉢に入って窮屈そうだった、なんだろ、あの植物。それらを大きい植木鉢に植え替えたら、一気に大きくなりました。よかった。

熱が出ているので横になっている

2月

玉子チャーハンを作っているな。私、チャーハン作るのうまいんです。

玉子チャーハン

あと、「ものまねエンターテインメント コロッケコンサート2025」を見に行った。まだ甲状腺炎になる前に買ったチケットだったので、熱があるなか、そろりそろりとゆっくり歩いて見に行きました。神奈川県民ホール。笑ったけど、コロッケさんに元気がないなと感じた。

そのしばらく後に、情熱大陸でコロッケさんの回があり、この時の(?)コンサートの裏側をやっていたけど、両膝を痛めてステージに立てないほどだったらしく気の毒だった。

3月

甲状腺炎がよくなってきて、少し散歩できるようになってきた。近所のスーパーで団子とバナナを買って帰ってきたり、小さすぎて読めない文字を、スマホで撮って拡大して読んでいる。老人か。早すぎるだろ。

生成AIを使って、私のアバターである「しーなねこ」をイメージ通りに作ることができました。

しーなねこ

近所にクレープ屋ができたので、1つ買って食べた。おいしかったが、それ以来行っていない。甘いものも食べられなくなった。

4月

サウナに行けるほどまで甲状腺炎が回復した。

大岡川の桜

お酒も飲めるようになった。

クラフトビール

仕事部屋(家の自室)の二酸化炭素濃度が高いのでは、と急に気になって、測定器を買った。たしか6千円したが、この時しか使っていない。

二酸化炭素測定器

5月

鶴岡八幡宮に初詣に行った。

鶴岡八幡宮の鳥居

近所の和菓子店が閉店していた。その前は、小料理店。どちらも高齢化だと思う。

6月

机のまわりをちゃんとした。とくにマイクスタンドをきちんとした。

7月

書くことなし

8月

書くことなし

9月

風邪を引いた。ここから咳がずっと続くのである。2か月ほど。結局、クリニックへ行って薬をもらって飲んだらすぐに治った。咳喘息のなりかけだったみたいだが、よくわからない。

チャーハン

10月

急に寒くなる。DJトーニャハーティング(前前前職の同僚)とプレステージ加藤(前職の同僚)のバンド「リハビリテーション」のライブへ行った。渋谷だった。各メンバーと同じ職場になることって、すごくめずらしいと思う。

11月

友人のビルの屋上でのバーベキューへ行く。恒例行事になっていてありがたいです。

バーベキュー

12月

4月からのプロジェクトが終わった。お疲れ様会があり、お客様との宴会があった。信頼していただけて本当にありがたかった。
すぐに別のプロジェクトに配属され、秋葉原へ行くようになった。

串吟

M-1グランプリ2025、おもしろかった。
年末は飲みすぎて二日酔いになることが3回ほどあって後悔した。

2024年の運勢など

2024年になった。去年を振り返るとあまりよいことがなかった。さらに振り返ると一昨年もよくなかった。住んでいたところでいろいろあったり、雇用主からの扱いを残念に感じることがあった。それで転職できたのはよかったが、転職先ではメンタル的に不調になるぐらい疲れた……(業務は楽しいのだが)。

 

12月は風邪で数日休み、年末年始は何もする気がせず、ニュースを見ながら横になっていたとき、ふと、これが世にいう「大殺界」というものではないかと思った。大殺界が何かはよくわからないが、たまに誰かが口にしていた。とにかく言葉の響きからやばいことはわかる。厄年みたいなものだろう。この数年の私は大殺界に違いない。自信があった。

 

横になりながらスマホで「大殺界 いつ」と検索したところ、私は2022年・ 2023年・2024年が大殺界だった。やっぱりだ。2023年がピークで2024年は4月まで続くらしい。不調の理由が明らかになった気がした。まだ数ヶ月つづくのかよ……と思ったが、終りが見えた感じがして、気が少し楽になった。

 

また、石井ゆかりさんの星占いによると私の星座である「水瓶座」は、今年から10年ほど”欲望”がテーマになるらしい。ここ10年ほど、欲しいものもやりたいこともなく、こうなりたいとか誰かと関係を持ちたいという気力も尽き、ひとりで茶を飲んで散歩して本を読むだけの生活(老後)に入ったなと感じていたのだけど、そこに”欲望”というキーワードが与えられて、私が失っていたのはそれだと思ったのだった。欲望がないと何もする気にならない。

 

ほどほどに、生きるにあたって張りが出るぐらいの欲望を意識してやっていきたいと思います。とりあえず、次のことをしたいと思います。

  • ゲームを作る(AIを使ったマルチプレイゲーム)

  • 勉強して転職する(スキルや経験を活かせることをする)

  • お金を増やす(お金の心配をせずに酒を飲みたい)

  • よく休む(暇な時間がないとおもしろいことが考えられない)

他に思いついたら追記します。今年もよろしくお願いします。

 

うとうとしている。眠くてしかたがない

正月休みが明け、6日からまた連休になった。朝からうとうとして、本を読もうとしてもいつの間にかうたた寝をするというのを繰り返して、気持ちが落ち込んできたので夜に飲みに出かけた。同僚のTさんにLINEをしたら向かいますと言ってくれて、蒔田の立飲屋”場る”で飲んだ。

店のマスターは釣りが趣味で釣った魚を刺身にしてくれるのだけどそれがうまいので、アジの刺身を頼んだのだけど出すのをすっかり忘れていたとのことで、ローストビーフと大間のマグロをおまけで付けてくれた。うまかった…
ビールを4杯飲んで帰った。

年末に見たNHKの番組「対話の旅に導かれて 森川すいめい」に影響を受けて、"オープン・ダイアローグ"についてのオーディオブックを聞いたり、読んだりしている。大切だよなと思う。私はつい相手の話を聞きつつ自分のこととか自分の解釈を話をしてしまうことがある。その人の立場になって 聴いていないなその人の気持ちに全然なれていないなと思った。カウンセリングにかぎらずあらゆることにつながっている。

 

NHKといえば「ドキュメント72時間 別府“貸間”の人生物語」が、新年早々すごかった。神回と言ってよいのではないでしょうか。素泊まりのような形で温泉を利用できる施設を訪れている人たちの生活・背景・心情を捉えていてそれぞれのストーリーについて深く思いを巡らせることになる。そこに3年も逗留している99歳のおじいさん、闘病中の夫婦、同窓会をする人たち、おじさん3人組、そして3人と一緒に飲むことになった人など、72時間でよくぞここまでという凝縮度だった。

 

あとは家の片付けばかりしている。それからRaspberry pi を出してきて、ちょっといじったりしている。

この本、知りたかったことがたくさん書いてあった。藤沢のジュンク堂をぶらぶらしていたときに見つけたのだけど、こういう本が読みたかったんだよなと思った。あそこへはまた行きたい。

さよなら父さん

7月に父が他界しました。先週、四十九日法要をしました。

数年前にパーキンソン病だと聞いて、
パーキンソン病というのは全身の筋力が落ちて固まって、
寝たきりになって呼吸ができなくなって死ぬということになるようなのですが、
薬もいろいろ出ていて、多くの人は薬物療法を続けて、
平均寿命ぐらいまで生きると聞いていました。

私は二年ほど前に都内から横浜の実家に帰ってきていて、
実家でリモートワークをしていたので、父の様子は見ていましたが、
折りたたみ椅子を支えにして、トイレまでゆっくり行ったり来たりしていました。
頭ははっきりしていて、話はできていたので、
まだまだ大丈夫だろうなと思っていました。

これはまずいのではと思ったは、足が腫れてパンパンになったのを見たときで、
心不全や腎不全で利尿作用が衰えて、体の水分が排出できない
ということになったようで、私はネットで調べて
塩分を控えたほうがいいらしいよと伝えて、
しばらくしたらそれが功を奏したのか、腫れは引いたのですが、
体重もどんどん落ちて痩せ細ってしまいました。

心不全とパーキンソン病の薬の飲み合わせなのか、
パーキンソン病の方がひどくなってきて、歩くのも困難になってきて、
ポータブルトイレやおむつをするようになってしまいました。

それでぼーっとして、反応が薄い日があってまずい感じがしたので、
救急車で病院へ連れて行ったのですが、異常はないということで
家に帰ってきたのですが、また同じような日もあり、
父は母に悪いと思ったのかわかりませんが、入院すると言って、
私が出勤している間に、救急車で入院したのでした。

私は転職して朝から夜まで職場で働くようになっていたので、
日中は母が父の介護をしていて、
ある日は、父がトイレの前で尻餅をついて立ち上がれなくなり、
母はそれを起こすことができず何時間もそのままだった
という話を帰ってきてから聞いて、どうしようと思ったこともありました。

そういうこともあって、入院すると言ったのかもしれません。
1ヶ月ほど入院して、週に1回状況が伝えられて、2週間に1回になり、
いま何しているのかなという感じになりつつも、
コロナ禍の影響でお見舞いに行くことはできないので、
回復することを信じて過ごすことぐらいしかできませんした。

しばらくして、腎臓がよくないことがわかって人工透析が必要になり、
病院を移ることになり、移る先の病院を選ぶようにということで、
自宅から徒歩圏内の病院を選びました。
そこに転院することになりました。そのときも父がどうなっているのか、
わからないままでした。そこに入ってからも、連絡はあまりありませんでした。
その病院は1ヶ月に1度だけ2名まで面会ができるというルールで、
私よりもっと父にあっていない妹のほうが
会ったほうがよいと話して、1回めの面会は
母と妹がいくことで予定していたのですが、
前日に妹が体調がよくないということで私が行くことになりました。

平日のお昼すぎの明るい待合室に、私と母だけで、
ここでお待ち下さいと待っていると、父が車椅子に乗せられて現れました。
2ヶ月ぶり(?)ぐらいに会った父は、ずいぶん変わっていていて、
痩せて骨がよく見えて、上の方を向いて口が空いたままで、
ああ、もう長くないなと思ってしまいました。

父はすぐに、水が飲みたいというジェスチャーをしたので、
受話器で看護師さんに水を飲ませてあげたいのですがと伝えたのですが、
飲む力が弱まっていて飲ませることができないということでした。

父は自分がいまどこにいるのかよくわかっていないようでした。
自分から入院すると言って入院したものの、こんなことになると
思っていなかったのだと思います。ここは〇〇駅の近くの病院だよ
というと驚いたような表情をしていました。

それと自分が仕事でこの病院にいると思っているようで、
もう仕事をやめたいとも言っていました。私はボケてしまったのではと思って、
私のこと覚えてる? と聞いたら、忘れるわけないじゃないか、
そこまでボケてないぞと言うように笑って手を振っていました。

しゃべるのがむずかしく、言葉が聞き取りづらく、
半分以上は聞き取れず、父はもどかしかったかと思います。
10分だけと聞いていましたが、30分ほど面会することができ、
また来月来るからね、次は妹が行くよと伝えて、
母が「がんばってね」と言うと、そんなそんなという顔をして、
もうがんばりたくないというように手を振りました。
いま思うと、家に帰りたかったのだと思います。

それから1ヶ月たった頃の月曜の朝5時ぐらいに、母が私を起こしに来て、
すぐに病院へ向かいました。痰が肺に溜まって呼吸ができなくなって、
吸引するのも間に合わなくなって、心肺停止になったということでした。
妹が面会する1週間前でした。以前に、心肺停止になっていても、
脳は生きているから大きい声で耳元に話しかければ伝えられると
聞いたことがあったので、体温が消え始めている父の耳に、
私は「ありがとうね!」と言いました。

それから、職場に連絡をして、葬儀屋さんへ連絡をして
1時間ほど父と過ごしてから、遺体をクルマに乗せて、病院を出ました。
徒歩で通える場所にあった病院なので、母と、とぼとぼ歩いて帰りました。
建物を出ると強い直射日光で、くらくらするほどでした。

 

初詣では、自分の家族の健康と平和を祈っていて、
それぐらい周りには健康でいてもらいたくて、
だれかが病気になったり死んだりしたら、気がおかしくなるぐらい、
耐えられない辛さに焼かれて、どうにかなってしまうのでは
と思っていたのですが、実際にそのようなことが起こると、
涙は出ず、悲しいという思いよりも、仕方がないという気持ちが強く、
さみしいという気持ちや、玄関が開く音をきくと、
父が帰ってきたと思ったり、朝起きたときに父がまだ生きているつもりの
気持ちになっていたり、そのようなことはありつつも、
ああ、亡くなってしまったのだなと思うのでした。

子どもを2人育てて、家を建てたり、ほんとうによくやってくれたなと
ありがたく思っています。ストレスで私にあたるようなこともありましたが、
いまではそれも仕方ないなと思います。父は幸せだったのかなと思い、
あまりそうではなかったのではないかなと思うこともあります。
とくに最期は、独りで苦しくどんなに孤独だったかと思うと、
やりきれない思いになります。

そういうことを職場の年上の女性(大学生のお子さんがいる)に言ったら、
「子どもが幸せだったら、お父様も幸せだったと思いますよ」と言ってもらえて、
たしかに、父は、母と私と妹の名前を連ねて単純な歌にして、
酔って帰ってきたときにはその歌をよく歌っていたなと思いました。

だから、私たちが幸せでいることが、父を幸せにすることなのだと
思うしかないなと思います。

あと思い出すのは、私が小学生の頃などに、よく父が言っていた、
曾祖父さんもそのまた先もずっとずっとご先祖がお前を守ってくれているからな
ということで、父は自分が死んだらそうやって私のこともずっと守ると
言っていたことを思い出します。

 

父が亡くなる3年前に、父の兄(私の伯父)が亡くなって、
父が葬儀をしたのでした。父は亡くなる前に、自分もそこで葬儀をしてくれと
言っていたので、そのようにしました。伯父のときと同じようにしたので、
浄土宗の葬儀だったのですが、仏壇をみると、うちは浄土真宗でした。
宗派を間違えてしまいましたが、父は苦笑いして許してくれそうな気がします。

どちらにしても極楽浄土へ行くはずなので。