さよなら父さん

7月に父が他界しました。先週、四十九日法要をしました。

数年前にパーキンソン病だと聞いて、
パーキンソン病というのは全身の筋力が落ちて固まって、
寝たきりになって呼吸ができなくなって死ぬということになるようなのですが、
薬もいろいろ出ていて、多くの人は薬物療法を続けて、
平均寿命ぐらいまで生きると聞いていました。

私は二年ほど前に都内から横浜の実家に帰ってきていて、
実家でリモートワークをしていたので、父の様子は見ていましたが、
折りたたみ椅子を支えにして、トイレまでゆっくり行ったり来たりしていました。
頭ははっきりしていて、話はできていたので、
まだまだ大丈夫だろうなと思っていました。

これはまずいのではと思ったは、足が腫れてパンパンになったのを見たときで、
心不全や腎不全で利尿作用が衰えて、体の水分が排出できない
ということになったようで、私はネットで調べて
塩分を控えたほうがいいらしいよと伝えて、
しばらくしたらそれが功を奏したのか、腫れは引いたのですが、
体重もどんどん落ちて痩せ細ってしまいました。

心不全とパーキンソン病の薬の飲み合わせなのか、
パーキンソン病の方がひどくなってきて、歩くのも困難になってきて、
ポータブルトイレやおむつをするようになってしまいました。

それでぼーっとして、反応が薄い日があってまずい感じがしたので、
救急車で病院へ連れて行ったのですが、異常はないということで
家に帰ってきたのですが、また同じような日もあり、
父は母に悪いと思ったのかわかりませんが、入院すると言って、
私が出勤している間に、救急車で入院したのでした。

私は転職して朝から夜まで職場で働くようになっていたので、
日中は母が父の介護をしていて、
ある日は、父がトイレの前で尻餅をついて立ち上がれなくなり、
母はそれを起こすことができず何時間もそのままだった
という話を帰ってきてから聞いて、どうしようと思ったこともありました。

そういうこともあって、入院すると言ったのかもしれません。
1ヶ月ほど入院して、週に1回状況が伝えられて、2週間に1回になり、
いま何しているのかなという感じになりつつも、
コロナ禍の影響でお見舞いに行くことはできないので、
回復することを信じて過ごすことぐらいしかできませんした。

しばらくして、腎臓がよくないことがわかって人工透析が必要になり、
病院を移ることになり、移る先の病院を選ぶようにということで、
自宅から徒歩圏内の病院を選びました。
そこに転院することになりました。そのときも父がどうなっているのか、
わからないままでした。そこに入ってからも、連絡はあまりありませんでした。
その病院は1ヶ月に1度だけ2名まで面会ができるというルールで、
私よりもっと父にあっていない妹のほうが
会ったほうがよいと話して、1回めの面会は
母と妹がいくことで予定していたのですが、
前日に妹が体調がよくないということで私が行くことになりました。

平日のお昼すぎの明るい待合室に、私と母だけで、
ここでお待ち下さいと待っていると、父が車椅子に乗せられて現れました。
2ヶ月ぶり(?)ぐらいに会った父は、ずいぶん変わっていていて、
痩せて骨がよく見えて、上の方を向いて口が空いたままで、
ああ、もう長くないなと思ってしまいました。

父はすぐに、水が飲みたいというジェスチャーをしたので、
受話器で看護師さんに水を飲ませてあげたいのですがと伝えたのですが、
飲む力が弱まっていて飲ませることができないということでした。

父は自分がいまどこにいるのかよくわかっていないようでした。
自分から入院すると言って入院したものの、こんなことになると
思っていなかったのだと思います。ここは〇〇駅の近くの病院だよ
というと驚いたような表情をしていました。

それと自分が仕事でこの病院にいると思っているようで、
もう仕事をやめたいとも言っていました。私はボケてしまったのではと思って、
私のこと覚えてる? と聞いたら、忘れるわけないじゃないか、
そこまでボケてないぞと言うように笑って手を振っていました。

しゃべるのがむずかしく、言葉が聞き取りづらく、
半分以上は聞き取れず、父はもどかしかったかと思います。
10分だけと聞いていましたが、30分ほど面会することができ、
また来月来るからね、次は妹が行くよと伝えて、
母が「がんばってね」と言うと、そんなそんなという顔をして、
もうがんばりたくないというように手を振りました。
いま思うと、家に帰りたかったのだと思います。

それから1ヶ月たった頃の月曜の朝5時ぐらいに、母が私を起こしに来て、
すぐに病院へ向かいました。痰が肺に溜まって呼吸ができなくなって、
吸引するのも間に合わなくなって、心肺停止になったということでした。
妹が面会する1週間前でした。以前に、心肺停止になっていても、
脳は生きているから大きい声で耳元に話しかければ伝えられると
聞いたことがあったので、体温が消え始めている父の耳に、
私は「ありがとうね!」と言いました。

それから、職場に連絡をして、葬儀屋さんへ連絡をして
1時間ほど父と過ごしてから、遺体をクルマに乗せて、病院を出ました。
徒歩で通える場所にあった病院なので、母と、とぼとぼ歩いて帰りました。
建物を出ると強い直射日光で、くらくらするほどでした。

 

初詣では、自分の家族の健康と平和を祈っていて、
それぐらい周りには健康でいてもらいたくて、
だれかが病気になったり死んだりしたら、気がおかしくなるぐらい、
耐えられない辛さに焼かれて、どうにかなってしまうのでは
と思っていたのですが、実際にそのようなことが起こると、
涙は出ず、悲しいという思いよりも、仕方がないという気持ちが強く、
さみしいという気持ちや、玄関が開く音をきくと、
父が帰ってきたと思ったり、朝起きたときに父がまだ生きているつもりの
気持ちになっていたり、そのようなことはありつつも、
ああ、亡くなってしまったのだなと思うのでした。

子どもを2人育てて、家を建てたり、ほんとうによくやってくれたなと
ありがたく思っています。ストレスで私にあたるようなこともありましたが、
いまではそれも仕方ないなと思います。父は幸せだったのかなと思い、
あまりそうではなかったのではないかなと思うこともあります。
とくに最期は、独りで苦しくどんなに孤独だったかと思うと、
やりきれない思いになります。

そういうことを職場の年上の女性(大学生のお子さんがいる)に言ったら、
「子どもが幸せだったら、お父様も幸せだったと思いますよ」と言ってもらえて、
たしかに、父は、母と私と妹の名前を連ねて単純な歌にして、
酔って帰ってきたときにはその歌をよく歌っていたなと思いました。

だから、私たちが幸せでいることが、父を幸せにすることなのだと
思うしかないなと思います。

あと思い出すのは、私が小学生の頃などに、よく父が言っていた、
曾祖父さんもそのまた先もずっとずっとご先祖がお前を守ってくれているからな
ということで、父は自分が死んだらそうやって私のこともずっと守ると
言っていたことを思い出します。

 

父が亡くなる3年前に、父の兄(私の伯父)が亡くなって、
父が葬儀をしたのでした。父は亡くなる前に、自分もそこで葬儀をしてくれと
言っていたので、そのようにしました。伯父のときと同じようにしたので、
浄土宗の葬儀だったのですが、仏壇をみると、うちは浄土真宗でした。
宗派を間違えてしまいましたが、父は苦笑いして許してくれそうな気がします。

どちらにしても極楽浄土へ行くはずなので。