橋梁の話を聴いたり、「フランク」を見たり、文芸漫談を聴いたり、人狼したり、錫酒器作りをした。

台風が近づいている。明日の朝には去っているらしい。

10月7日

世界的橋梁デザイナーのローラン・ネイさんが、
ミズベリングというイベントで講演をされるというので、
聴きに行った。会社を早めに出て二子玉川。18時から。

ネイさんは世界のあちこちで、クルマが走るような大きな橋から、
歩道橋のような小さな橋まで(橋以外にもいろいろ)、
デザインをして作っている人で、その橋の形はとても独創的で、
おもしろくて、ぜひお話を聴きたいと思ったのだった。
(このサイトに写真がたくさんある NEY +Partners | Bridges

橋は、川とか谷とかを挟んでふたつの地点を結ぶものだけど、
単にそれだけじゃなくて、その作り方とか機能とか地域の文化や
ニーズや美しさとか、いろんな要素が反映されてきるものだから、
そのときどきの国や街を象徴するようなものになっている、
というのが、なるほどなあと思った。
ぼくはそこまで考えながら橋を渡ったことがない。
何も考えずに橋を渡っていた。というか、
そうやって考えさられるような橋を、
これまであまり見てこなかったからかもしれない。
ネイさんの橋を見ると、なんでこうなってんだと考える。

生き物のようななめらかな曲線を描いていたり、
構造や材質についても、いろいろ不思議に思う。
で、それらにはすべて理由があって、コンピュータで解析して、
強度とかコストとか、もっとも最適な形状を算出して、
地域のニーズや、文化を織り交ぜて突き詰めていくと、
機能的にすぐれて、かつ見た目にも美しい橋のデザインが、
自然とできあがっていくらしい。すごい。

最近は長崎の出島に架ける橋の設計をしているとのこと。
シンポジウムを開いてニーズを聞き出して、
みんなでこういうふうにしたいとかを検討するらしい。
コミュニティと協力して、工夫して、
その場所独自の愛着のあるものを作り上げていくのって、
とても素敵だ。橋の費用10億円が市民の寄付
というのもすごいと思った。

重要なのは自分の野心ではなく、
地域の人々の野心(大望)が必要で、
デザイナーはそれをかたちにするのが仕事。
と講演の最後におっしゃっていた。

10月8日

映画「フランク」を見た。川崎のチネチッタ。
ところで、チネチッタで映画を見ると、
提携している飲食店で割引があっておトクだし、
5回見ると1回無料になるし、会社から近いし、
これからもっと行くわ。ちなみにイッセイ氏は常連。

「フランク」超よかった。
作曲を趣味としている平凡な会社員のジョンが、
フランクというミュージシャンとその仲間たちと出会って、
という物語。作品の中心になってるのはフランクで、
フランクは精神的なものでハリボテの被りものを脱げない。
フランクの仲間たちも精神的に問題があって、
このグループでしか生きられない感じでゆるく結束している。
フランクはその中でカリスマ的なリーダーになっている。
そこにジョンという社会性が持ち込まれる。

ぼくは高校と浪人のとき、人の視線が恐ろしくて、
電車に乗るのが大変な時期があって、
フレームの太いメガネをかけたりしていたので、
被りものをかぶる人の気持ちがよくわかる。
いまも家の中にいるときがいちばん元気で、
外に出ると30%くらいの元気になるし集中できない
(できたら被りものかぶって生活したい)。

とにかく、そういう自分の本領を発揮できるホームに、
亀裂が入るというか、外の世界に出ていこうとか、
そういうことは誰もが日常的にやっていることだと思うけど、
それが超困難なフランクがやると、というのが興味深いし、
感動する。歌もよくて、笑いもたくさんあった。
見てよかった。
http://instagram.com/p/t5OwMiiwg5/
チッタ近くで食べた海鮮パエリア

10月10日

文芸漫談へ行った。下北沢の北沢タウンホール。
今回のテーマは泉鏡花の『高野聖』。
文芸漫談は、読まずに行っても笑えるけど、
事前に読んでいくと何倍も笑えて勉強になる。
だから、読んだのだけど『高野聖』よくわからない。
誰の台詞なのか、時間軸はどうなっているのか、
この表現はどういう意味なのか、間違いじゃないのか、
わからなさの原因は、1900年の作品ということと、
ぼくの力不足なのだろうと思った。

で、実際に文芸漫談が始まって、
作家の奥泉光さんといとうせいこうさんがお話をするのだけど、
「泉鏡花は、変」というのが奥泉さんの主張で、
おふたりにも作品中のある場面の描写について、
「これどういうこと?」「変でしょ」とおっしゃっていたので、
作家の人でもわからないんだと思った。

泉鏡花がどのように変なのかについては、
当時、自然主義が主流になり始めてきてリアリティを
追求した書き方になっていっているのに対し、
泉鏡花がそういうのを全然気にしていないという点や、
いまだったらたくさん校正を入れられような書き方が、
(天然かどうかわからないが)されていることや、
想像の赴くままに、いろんな現象の境界をなくしつつ、
独自に自分の世界の中だけで書き続けたという感じが、
変な感じのもとのようだった。人柄についても、
お辞儀で畳に手をつくとき手の甲をつけていたとか(ゴリラか)、
病気がこわくて外出しないとか、お酒を燗にするとき
ぐつぐつ煮たとか、変人エピソードもたくさん展開された。
そんなツッコミどころがたくさんある作品と人だったので、
漫談はいつも以上に爆笑が起きていた。たのしかった。

あと「自然主義になってからの抑圧」というような話が出た。
20世紀前半の自然主義になる前は様々な書き方があったのに、
自然主義が中心になってから統一されていくことになり、
それによって抑圧されているものがあるということらしい。
変さが認められなくなるのはストレスになりそうだし、
変なのがなっていくのは、さみしいと思った。
抑圧されたものはどこへ行ったのだろう。

10月11日

荻窪の区民センターで人狼をした。
10人で、昼の1時から夜の9時までの8時間。
最後の方はみんなへとへとになっていた。
何度もやっているとゲームの進め方が固定化して、
ルーチンになりつつある感じがしてきたので、
いつもと違うことを(つかなくてもよいウソをついたり)したら、
自滅したり村が滅びてしまった。
1ゲーム終わって「なんでそんなことしたの!?」
とおどろかれた。それでもなぜか勝率はよかったので、
これは何かあると思った。
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型から外れたことをすると、
村全体が新しい状況に対応できずに滅びる可能性が高い。
だからといって、型と同じことをしていたら、
人狼が意図して型を崩す方法で攻めてくるかもしれないので、
できるだけ状況に合わせて、多様な戦法をフレキシブルに
とることができるようにすることが大切なのだと思った。
つまり、ぼくは自分が勝とうとすることよりも、
村全体の防衛力向上に寄与したいと考えていたのだ。

いきなりおかしな行動をする人を、
「さてはおまえ人狼だな!」と反射的に疑い、
村八分にして吊るすよりもまず、
「なるほどそういうこともあるよね」と余裕を持って受け止め、
あらゆる可能性を考慮して、その変異を利用すること、
ダイバシティ、それがコミュニティ全体の成長につながると、
人狼にかぎらず、思ったのだった。

10月13日

目黒のMakersBaseというシェア工房
(様々な工具や設備を時間単位で借りて使うことができる)で、
ものづくりのワークショップをしているということを聞いて、
行ってきた。ぼくが参加したのは、錫(すず)の酒器作り。
直径6センチくらい厚み1センチほどの錫の板を、
木槌と金槌で叩きまくって、酒器の形にしていく。

朝10時スタートで、終わったのは3時間半後の1時半。
黙々と錫を叩き続けるのは、とてもたのしい作業だった。
頭のなかが空になるし、インターネットから離れられる。
錫はとてもやわらかい金属で、すぐに延ばせるけど、
傷つきやすい。酒器の形やテクスチャは各自好きにできる。
ぼくは丸くして表面はツルツルにした。
同じ時間に参加した2人は円錐台のようにしていた。
http://instagram.com/p/uFSx31Cwnz/
われながらよくできたと思う。家で賀茂鶴を注いで飲んだ。
錫は抗菌性があり熱伝導がよく錆びにくく、
あとお酒がうまくなるらしい(理由はわからない)。
で、飲んだらうまかった。
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そうだ、工房へ行くとき、以前職場だったビルを横切った。
懐かしくて、当時何度も行ったことのあるカレー屋
ルソイでマトンカレーを食べたのだった。うまかった。
http://instagram.com/p/uFJAr9Cwv-/