小説集『突き抜け』のご購入はこちらから。



なんだか長くなってしまった日記。

精神分析に関する本を読んでいて、
そこに「転移」と「逆転移」という概念があって、
興味をそそられました。


精神分析はクライエント(治療を受ける人)と
分析家がセットになって行うもので、
クライエントが過去にあった重要な人間関係で抱いた感情が、
今の分析家に向かって出てくる現象を「転移」といって、
逆に、そのクライアントの転移に触発されて、
分析家の方にあった抑圧されていた感情などが活性化して、
出てくる現象のことを「逆転移」というらしいです。


で、分析家は転移や逆転移を観察して、
この人はこういう感じがするなあとか、それによって、
自分がこういう気持ちになってるなあ、と受け止める。
また、言葉を交わしたり、会わない期間をとって考えさせたり、
時にはお互い感情的になったりしているうちに、
治ったり、治らなかったりするものだそうです。
なんか恋愛みたいだなと思いました。


で、ここで話が少し変わるのですが、
最近また小説を書いて文章について考えているのです。
小説を書くときに起こっていること、
また、小説の中で起こっていること、
さらに、小説を読むときに起こっていること。
これらはどれも上に書いた、
転移や逆転移みたいなものではないか、
と思ったのでした。

たとえば小説を書くときは、

テーマとかあらすじとか決めずに自由に、
キーボードで文字を刻んでいくとき。
これは精神分析で言う自由連想法のようなもので、
何を書いてもいいと言われていても、出てくる文章は、
作者の精神構造の中(意識・無意識)以外から出てきようがない。
仮に、誰かに「こういうあらすじで書いてください」
と指示されて書き始めたとしても、筋と筋とのつなげ方や、
筋の上に盛られる肉などに、必ず作者が出てきて隠せない。
つまり、作者の精神構造がテキストに転移していると思うのです。

小説の中には、

作者の精神構造が転移して作られた世界がある。
その世界の中には、実在しない人間がいて、
彼ら彼女らが何かしらの感情を持って行動をしている。
つまり、彼ら彼女らには、たしかな精神構造があって、
それによって、彼ら彼女らの感じ方や感情が、
作者の意識の有無によらずに存在しているように思う。
こう感じたので、こういう行動をするという、
行為のレベルにまで感情が移ってきている。
ここにも転移があると思ったのでした。


たとえば、僕がふわふわと文章を綴って、
あとから読み返すと「これはどういうことだろう」と思うけど、
たしかに、ここにこうあるべきなんだと感じるときがある。
前後の文脈や世界によるから何でもいいのですが、たとえば、

彼はねぎとろ巻が欲しいとコンビニに入ったが、
出たときにはグラタンを持っていた。

という文があるとするとして、
こいつは何かあるなと思ってしまう。
コンビニに入る前の彼の身に衝撃的な出来事があったので、
ショックすぎてぼんやりしてしまったという文脈なら、
こうなるかもしれない。だからといって、
「彼はショックを受けて、ぼんやりしていました。」
と文章で書くとおもしろくなくて、
精神構造が転移によって表出した結果を示す方が、
人間を深く描ける気がしました。


だから、うまいと思う文章を書くためには、
文章に限らずに、いろんな表現にも言えると思ったのですが、
日々触れる誰かの行為や現象(転移の結果)から、
その対象の精神構造(背景や未来)へ、
どれだけ深く潜り込むことができるかではないでしょうか。
それは、感性というか、好奇心や想像(妄想)力、
感情移入して逆転移を引き起こして沸き上がってくる、
喜怒哀楽を生々しく感じ取る力が、ひとつ。
もうひとつは、感じ取った感情に振り回されずに受け止めて、
きちんと認識して味わって消化し、形式化して整理すること。
そして、ストックされた膨大な転移のパターンを、
ここぞというところで、的確に表現として形にできる力。
その両方の力を掛けあわせたものを、
才能っていうんじゃないかと思ったりしました。
で、解釈と形式化は作家固有の関数みたいなもので、
精神構造を入力として、作品が出力されるイメージがします。

小説を読むときは、

上のたとえで言えば、彼がグラタンを買ったという行為、
つまり、彼の精神構造や感情や
転移してできた現象を受け取ったとき、
読み手に何か感情が生まれると思うのですが、
その感情が、読み手にとって切実な問題だったり、
抑圧している問題と共鳴したとき、
小説の人物の転移に触発されて、読み手は逆転移を起こす。
とくに自分で書いたものだと、無意識に潜んでいる問題から、
自由連想的に文章が綴ることが多いので、
逆転移を起こしやすい気がします。
「ああ、僕はこう思っていて、それについて、こう感じるのか」
とか、誰か他の方の小説なら、
「ああ、僕はこう感じるのか」
と自分の精神構造が、ほんのちょっとだけわかる。
わかって、自己洞察して、ルーツの部分までいけたら、
それは難しいと思いますが、とてもいいことだと思います。

二年ほど前に、

吉本隆明さんの講演会『芸術言語論』を
聴きに行ったことがあるのですが、
上のようなことを考えていたら、
そういえばと急に思い出したのです。


下記の引用は、講演会について書いた僕のメモの一部です。

「作者の精神構造」「表現」「表現の結果(作品)」を繋いで、
凝縮したときに、作家自体の本質的なもの、芸術言語がある。


沈黙にもっとも近いところから出てくる独り言が、
芸術の大部分を構成している。自己表出。


小説は、筋として「指示表出」があって、
そこに価値が生まれ、間接的に「自己表出」がされている。
純文学が「自己表出」で、大衆文学が「指示表出」。


作家は、読者に読み方を強要することはできない。
そうなると、偶然と偶然がぶつかったとき、
例えば、作品に書かれていたことと、
同じことを読者が考えていたときというような、
そういうときにしか、価値が生まれない。


僕の勝手な想像ですが、
「作家の精神構造」が「表現」という行動へと転移すると、
「表現」行為の中に込められた狂気的なものが、
「作品」というひとつの形に転移してかたまる。
そして、作品全体を内と外から構築している精神構造が、
読者に逆転移を誘発して、それを読者が受け止めて味わうことで、
精神の解放にすこしは役立つのではないでしょうか。


さらに、解放された読者の精神は、新たな行動へと転移し、
その行動がまた別の誰かに逆転移を起こして、精神が解放される。
そんな永遠の連鎖が続くことがあるのではないでしょうか。
それが表現の力だと思って、僕は信じることにしました。