どうも何もする気がおきない、と思ったら7月だ。
3・7・11月は頭がかゆくなって、げんなりする。
季節の変わりめだからなのだけど、昔にくらべたら、
だいぶまろやかな不調というか、いい感じの憂鬱で、
こういう期間も必要なのだとわかるようになったので、
暗いながらも暗さを楽しんだりする余裕もある。
けれどもやっぱり憂鬱なので、ひどくならないように、
適当にしのいで、感度の高いうちに色々吸収しておこうと思う。
こういう状態になると、中原中也の「散歩生活」という
スランプ散文を思い出して読んで、ふーんと思う。
夢みるだの、イマジネーションだの、諷刺だのアレゴリーだのと、人は云ふが、大体私にはそんなことは分らない。私の頭の中はもはや無一文だ。昔は代数も幾何もやつたのだが、今は何にも覚えてゐない。
それでも結構生きながらへることは嬉しいのだが、嬉しいだけぢやア済まないものなら、どうか一つ私に意義ある仕事を教へて呉れる人はゐないか。抑々私は測鉛のやうに、身自らの重量に浸つてゐることのほか、何等の興味を感じない。
世には人生を、己が野心の餌食と心得て、くたぶれずに五十年間生きる者もある。
或は又、己が信念によつて、無私な動機で五十年間仕事する人もある。
私はといへば、人生を己が野心の対象物と心得ても猶くたびれない程虎でもなく、かといつて己が信念なぞといふものは、格別形態を採る程湧き出ても来ぬ。何にもしなければ怠け者といふだけの話で、ともかく何かしようとすれば、ほんのおちよつかい程度のことしか出来ぬ。所詮はくたばれア、いちばん似合つてるのかも知れないけれど、月が見えれば愉しいし、雲くらゐ漠としたのでよけれア希望だつて湧きもするんだ。それを形態化さうなぞと思へばこそ額に皺も寄せるのだが、感ずることと造ることとは真反対のはたらきだとはよう云うた、おかげで私はスランプだ。
尤もスランプだからといつて、慌てもしない泣きもしない。消極的な修養なら、積みすぎるくらゐ積んでゐる。慎しく生きてゐるんだ。格別過去や未来を思ふことはしないで、一を一倍しても一が出るやうな現在の中に、慎しく生きてゐるのだ。酒といふ、或る者には不徳の助奏者、或る者には美徳の伴奏者たる金剛液を一つの便り、慎しく生きてゐるのだ。
発掘されたポムペイ市街の、蠅も鳴かない夏の午ひる、鋪石や柱に頭を打ちつけ、ベスビオの噴煙を尻目にかけて、死んで沙漠に埋められようとも、随分馬鹿にはならないことなのを、それでもまあ、日本は東京に、慎しく生きてゐるのだ。
――なんてヒステリーなら好加減よすとして、今晩はこれで眠るとして、精神を憩やすめておいて、また明日の散歩だ……
そうそう、7月の上旬に自転車を買ったのだった。
グリーン。変速ギアはなくて、ライトもタイヤを回して
光らせるやつだから夜は負荷がかかる。けど安かった。
今度は盗まれないようにします。
あとそうだ、Fさんが制作をしているというお芝居を
見に行ったのだった。7月12日の土曜日だった。
超ヤバイと言われつつやってきた台風が、
むわっとした風になって消滅した翌日の夏みたいな日。
武蔵小金井の小金井アートスポットは、
朝にエアコンが壊れたそうで、
窓を開けて大きな扇風機だけだったのだけど、
それがかえってよかった。とても気持ちがよかった。
「Bakemono 地球上の音楽」というタイトル。
小さなスペースで目の前で行われるふたり芝居。
ふたりの足元にそれぞれスイッチがあって、
それを踏むと明かりが点いたり消えたりする。
オンとオフがふたりなので、合計4つの状態がある。
その4分割された平面の上に、様々な形の言葉と音楽とが、
積み重なって層ができていくようなイメージができた。
70分。おもしろかった。そのあとのアフタートークは、
アイスコーヒーを飲みながら聞いた。それもよかった。
昨日(15日)は、会社の同僚のieameくんが、
「今晩飲みに行きませんか?」と声をかけてくれて、
同じく同僚のバッキーと、3人で飲みに行った。
18時から23時までずっと飲んで話していた。
そのあとゲームセンターへ行くことになって、
ストリートファイターなどで対戦した。
それにしてもぼくは飲みすぎていたと思う。
楽しかった感情が残ってるだけで、あまり記憶がない。
あと、そうだ。書いてるといろいろ思い出してきますね。
日曜日の13日に、バーベキューをしたのだった。
とってぃさんのビルの屋上でのバーベキュー。
まいこもりすさんの誕生日も祝ったりして、
いい肉を食べたりトウモロコシ食べたり、うまかった。
パンを焼いて食べたり、なんかどれもこれもうまかった。
ぼくは日本酒の「石鎚」を冷やして持って行った。
あっという間になくなった。あと、やっぱり飲みすぎた。
帰ってから頭が痛くなった。