7月18日(土)
家ですごす。社長はバンドの練習でいない。
『コンビニ人間』を一気読み。おもしろかった。
世の中の”普通”がわからない36歳未婚の女性主人公。
子どもの頃から周囲と違っていて、小鳥が死んでみんなが泣いているときに、
これを家に持って帰って焼き鳥にしようと言ったり、
男子同士の喧嘩を見た同級生が「だれか止めて!」と叫んだら、
スコップを持ち出して男子の頭を殴って止めたり、
その行為の何がよくないのか主人公にはわからず、
母親や妹からは、いつになったら”治る”の? と心配されて泣かれたりする。
自分は世間からズレていると感じていても、
コンビニのマニュアルに従って動いているときだけは
世間の一部になっていると感じている。
大学在学中からコンビニでアルバイトをして、そのまま36歳になる。
普通がわからないので、話し方、服装、態度など、同僚たちのそれを真似している。
そうしていれば世間から浮かずにいられる。主人公にとってのコンビニは、
世界とつながるための宗教のようになっている。
で、これは多かれ少なかれみんながやっていることだし、
この本の中では、コンビニという宗教を信仰するか、
結婚して子どもをつくるという宗教を信仰するかの違いなのかと思った。
信仰があれば、現実に直面せずにすむので精神をまともに保っていられる。
ぼくは信仰が弱いので、普通がよくわからなくなる。
いまも普通の歩き方、話し方がよくわからなくなる。
保坂和志さんが、町田康さんの『屈辱ポンチ』の解説に
こんなことを書いていたのを思い出した。
文学というものは普通に社会で生きるのと別の価値観や感覚で読まなければいけないと言っているのではない。いざというときになると、普通に社会で生きる価値観や感覚なんて何ほどのものでもなくなって、人間には文学が迫上がってくる。
それは文学が社会生活の片隅の余暇だからでなく、社会の根底に横たわっているものだからで、船や飛行機に乗っているときに海の深さや空から地面までの高さを意識しないでいられたものが、沈没や墜落のときに圧倒的にその深さや高さが問題になる、その領域が文学というもので、社会生活というのはそういう恐怖や不安の実在を忘れさせるようにできていて、だから一生懸命働いたり家を買ったりできるのだが、町田康の主人公たちは社会生活からずり落ちたために文学に直面することを余儀なくされる。
7月19日(日)
昼からYouTubeのライブ配信をする。社長と、小説家のIさん。
Iさんは数日泊まっていく。Iさんがいるとルームシェアに安定感が出る。
社長とIさんがダイエットをすることになった。
1ヶ月で2kg痩せることに。できなかったらハンドクラップダンス。
7月20日(月)
昼にピザを食べる。
そのあと銀座三丁目へ移動して、生ハムでワインを1杯。
夜は月島で、もんじゃ。ビールを3杯。
そのあとバーでウイスキーのソーダ割り。
ダイエットをすることになった翌日からこんなに食べている。
大丈夫だろうか。
7月21日(火)
昼すぎに図書館へ本を返しに行こうと、自転車を探したが見つからない。
いつも置いているところにない。だれかが移動させたのかなと、
駐輪場をひとまわりしてみたが、ない。これは盗まれたのではと、
マンションの管理事務所へ行って、自転車がなくなったことを伝える。
がっかりして、図書館へは行かずに自宅にもどり、
最後に乗ったのはいつだったかをTwitterで調べると、
湊湯でサウナした帰り またこの突起のついたイスに座っています pic.twitter.com/MqvZDC6syt
— しーなねこ (@shiinaneko) 2020年7月16日
16日の昼に乗っていた。
さらに、 GoogleMapのタイムライン機能(どこへ行ったかがわかる)を見ると、
17日も自転車に乗って、15時に自宅に帰っていた。
そして、ホットケーキを食べていた。
これは小腹がすいて食べたのだけど、なぜ小腹がすいたかというと、
昼が素麺だったからで、そういえば、素麺とホットケーキの間に、
ミニ弁当(おにぎりと小さい唐揚げ)も食べたなあと思う。
そうだ、帰り際に近所のローソンでミニ弁当を買って、
そこに自転車を停めっぱなしだ! 行くとあった。4日ぶり。
昨日もバーの帰りに、ローソンの前を歩いていたのに全然気づかなかった。
ミニ弁当を食べたことを思い出せなかったら、と思うとぞっとする。
夜、YouTubeのライブ配信。
小説投稿サイト「ステキブンゲイ」に投稿されている作品のなかから、
おすすめをピックアップして紹介することをした。
Iさんは10作品ほど幅広く紹介してくださって、作者の方々もよろこんでくれた。
ぼくは2作品。配信を見て読んでくれた方がいてうれしかった。
今回のような、おすすめを紹介する配信は毎週でもやりたい。